といって茶店の女の背中を叩《たた》いた。
私《わし》はそうそうに遁出《にげだ》した。
いや、膝だの、女の背中だのといって、いけ年《とし》を仕《つかまつ》った和尚が業体《ぎょうてい》で恐入《おそれい》るが、話が、話じゃからそこはよろしく。」
四
「私《わし》も腹立紛《はらたちまぎ》れじゃ、無暗《むやみ》と急いで、それからどんどん山の裾《すそ》を田圃道《たんぼみち》へかかる。
半町ばかり行くと、路《みち》がこう急に高くなって、上《のぼ》りが一カ処、横からよく見えた、弓形《ゆみなり》でまるで土で勅使橋《ちょくしばし》がかかってるような。上を見ながら、これへ足を踏懸《ふみか》けた時、以前の薬売《くすりうり》がすたすたやって来て追着《おいつ》いたが。
別に言葉も交《かわ》さず、またものをいったからというて、返事をする気はこっちにもない。どこまでも人を凌《しの》いだ仕打《しうち》な薬売は流眄《しりめ》にかけて故《わざ》とらしゅう私《わし》を通越《とおりこ》して、すたすた前へ出て、ぬっと小山のような路の突先《とっさき》へ蝙蝠傘を差して立ったが、そのまま向うへ下りて見えなくなる。
その後から爪先上《つまさきあが》り、やがてまた太鼓《たいこ》の胴《どう》のような路の上へ体が乗った、それなりにまた下《くだ》りじゃ。
売薬は先へ下りたが立停《たちどま》ってしきりに四辺《あたり》を※[#「目」+「句」 101−3]《みまわ》している様子、執念《しゅうねん》深く何か巧《たく》んだかと、快からず続いたが、さてよく見ると仔細《しさい》があるわい。
路はここで二条《ふたすじ》になって、一条《いちじょう》はこれからすぐに坂になって上《のぼ》りも急なり、草も両方から生茂《おいしげ》ったのが、路傍《みちばた》のその角《かど》の処にある、それこそ四抱《よかかえ》、そうさな、五抱《いつかかえ》もあろうという一本の檜《ひのき》の、背後《うしろ》へ蜿《うね》って切出したような大巌《おおいわ》が二ツ三ツ四ツと並んで、上の方へ層《かさ》なってその背後へ通じているが、私《わし》が見当をつけて、心組《こころぐ》んだのはこっちではないので、やっぱり今まで歩いて来たその幅《はば》の広いなだらかな方が正《まさ》しく本道、あと二里足らず行けば山になって、それからが峠になるはず。
と見ると、どうしたことかさ、今いうその檜じゃが、そこらに何《なんに》もない路を横断《よこぎ》って見果《みはて》のつかぬ田圃の中空《なかぞら》へ虹《にじ》のように突出ている、見事な。根方《ねがた》の処《ところ》の土が壊《くず》れて大鰻《おおうなぎ》を捏《こ》ねたような根が幾筋ともなく露《あらわ》れた、その根から一筋の水がさっと落ちて、地の上へ流れるのが、取って進もうとする道の真中に流出《ながれだ》してあたりは一面。
田圃が湖にならぬが不思議で、どうどうと瀬《せ》になって、前途《ゆくて》に一叢《ひとむら》の藪《やぶ》が見える、それを境にしておよそ二町ばかりの間まるで川じゃ。礫《こいし》はばらばら、飛石のようにひょいひょいと大跨《おおまた》で伝えそうにずっと見ごたえのあるのが、それでも人の手で並べたに違《ちが》いはない。
もっとも衣服《きもの》を脱いで渡るほどの大事なのではないが、本街道にはちと難儀《なんぎ》過ぎて、なかなか馬などが歩行《ある》かれる訳《わけ》のものではないので。
売薬もこれで迷ったのであろうと思う内、切放《きりはな》れよく向《むき》を変えて右の坂をすたすたと上りはじめた。見る間《ま》に檜を後《うしろ》に潜《くぐ》り抜けると、私《わし》が体の上あたりへ出て下を向き、
(おいおい、松本《まつもと》へ出る路はこっちだよ、)といって無造作《むぞうさ》にまた五六歩。
岩の頭へ半身を乗出して、
(茫然《ぼんやり》してると、木精《こだま》が攫《さら》うぜ、昼間だって容赦《ようしゃ》はねえよ。)と嘲《あざけ》るがごとく言い棄《す》てたが、やがて岩の陰《かげ》に入って高い処の草に隠《かく》れた。
しばらくすると見上げるほどな辺《あたり》へ蝙蝠傘の先が出たが、木の枝《えだ》とすれすれになって茂《しげみ》の中に見えなくなった。
(どッこいしょ、)と暢気《のんき》なかけ声で、その流の石の上を飛々《とびとび》に伝って来たのは、茣蓙《ござ》の尻当《しりあて》をした、何にもつけない天秤棒《てんびんぼう》を片手で担いだ百姓《ひゃくしょう》じゃ。」
五
「さっきの茶店《ちゃみせ》からここへ来るまで、売薬の外は誰《だれ》にも逢《あ》わなんだことは申上げるまでもない。
今別れ際《ぎわ》に声を懸けられたので、先方《むこう》は道中の商売人と見ただけに、まさかと思っても気迷《きまよい》が
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