ったが、ふ、ふふん、と鼻の音をさせて、膝の下へ組手のまま、腰を振って、さあ、たしか鍋《なべ》の列のちょうど土間へ曲角の、火の気の赫《かっ》と強い、その鍋の前へ立つと、しゃんと伸びて、肱《ひじ》を張り、湯気のむらむらと立つ中へ、いきなり、くしゃくしゃの顔を突込《つっこ》んだ。
 が、ばっと音を立てて引抜いた灰汁《あく》の面《つら》と、べとりと真黄色《まっきいろ》に附着《くッつ》いた、豆府の皮と、どっちの皺《しわ》ぞ! 這《は》ったように、低く踞《しゃが》んで、その湯葉の、長い顔を、目鼻もなしに、ぬっと擡《もた》げた。
 口のあたりが、びくりと動き、苔《こけ》の青い舌を長く吐いて、見よ見よ、べろべろと舐《な》め下ろすと、湯葉は、ずり下《さが》り、めくれ下《お》り、黒い目金と、耳までのマスクで、口が開いた、その白い顔は、湯葉一枚を二倍にして、土間の真中《まんなか》に大きい。
 同時に、蛇のように、再び舌が畝《うね》って舐め廻すと、ぐしゃぐしゃと顔一面、山女《あけび》を潰《つぶ》して真赤《まっか》になった。
 お町の肩を、両手でしっかとしめていて、一つ所に固《かたま》った、我が足がよろめいて、自分がドシンと倒れたかと思う。名古屋の客は、前のめりに、近く、第一の銅鍋の沸上った中へ面《おもて》を捺《お》して突伏《つっぷ》した。
「あッ。」
 片手で袖を握《つか》んだ時、布子の裾のこわばった尖端《とっさき》がくるりと刎《は》ねて、媼《ばばあ》の尻が片隅へ暗くかくれた。竈《かまど》の火は、炎を潜めて、一時《いっとき》に皆消えた。
 同時に、雨がまた迫るように、窓の黒さが風に動いて、装《も》り上ったように見透かさるる市街に、暮早き電燈の影があかく立って、銅《あかがね》の鍋は一つ一つ、稲妻に似てぴかぴかと光った。
 足許も定まらない。土間の皺《しわ》が裂けるかと思う時、ひいても離れなかった名古屋の客の顔が、湯気を飛ばして、辛うじて上るとともに、ぴちぴちと魚《うお》のごとく、手足を刎《は》ねて、どっと倒れた。両腋を抱いて、抱起した、その色は、火の皮の膨れた上に、爛《ただれ》が紫の皺を、波打って、動いたのである。
 市《いち》のあたりの人声、この時|賑《にぎや》かに、古椎《ふるしい》の梢《こずえ》の、ざわざわと鳴る風の腥蕈《なまぐさ》さ。
 ――病院は、ことさらに、お藻代の時とちがった、他《ほか》のを選んだ。
 生命《いのち》に仔細《しさい》はない。
 男だ。容色なんぞは何でもあるまい。
 ただお町の繰り言に聞いても、お藻代の遺書《かきおき》にさえ、黒髪のおくれ毛ばかりも、怨恨《うらみ》は水茎のあとに留めなかったというのに。――
 現代――ある意味において――めぐる因果の小車《おぐるま》などという事は、天井裏の車麩《くるまぶ》を鼠が伝うぐらいなものであろう。
 待て、それとても不気味でない事はない。
 魔は――鬼神は――あると見える。

 附言。
 今年、四月八日、灌仏会《かんぶつえ》に、お向うの遠藤さんと、家内と一所に、麹町《こうじまち》六丁目、擬宝珠《ぎぼうし》屋根に桃の影さす、真宝寺の花御堂《はなみどう》に詣《もう》でた。寺内に閻魔堂《えんまどう》がある。遠藤さんが扉を覗いて、袖で拝んで、
「お釈迦様と、お閻魔さんとは、どういう関係があるんでしょう。」
 唯今、七彩五色の花御堂に香水を奉仕した、この三十歳の、竜女の、深甚微妙なる聴問には弱った。要品《ようほん》を読誦《どくじゅ》する程度の智識では、説教も済度も覚束《おぼつか》ない。
「いずれ、それは……その、如是我聞《にょぜがもん》という処ですがね。と時に、見附を出て、美佐古《みさご》(鮨屋)はいかがです。」
「いや。」
「これは御挨拶。」
 いきな坊主の還俗したのでもないものが、こはだの鮨を売るんだから、ツンとして、愛想のないのに無理はない。
「朝飯《あさ》を済ましたばかりなのよ。」
 午後三時半である。ききたまえ。
「そこを見込んで誘いましたよ。」
「私もそうだろうと思ってさ。」
 大通りを少しあるくと、向うから、羽織の袖で風呂敷づつみを抱いた、脊のすらりとした櫛巻《くしまき》の女が、もの静《しずか》に来かかって、うつむいて、通過ぎた。
「いい女ね。見ましたか。」
「まったく。」
「しっとりとした、いい容子《ようす》ね、目許《めもと》に恐ろしく情のある、口許の優しい、少し寂しい。」
 三人とも振返ると、町並樹の影に、その頸許《えりもと》が白く、肩が窶《やつ》れていた。
 かねて、外套氏から聞いた、お藻代の俤《おもかげ》に直面した気がしたのである。
 路地うちに、子供たちの太鼓の音が賑《にぎ》わしい。入って見ると、裏道の角に、稲荷神《いなりがみ》の祠《ほこら》があって、幟《のぼり》が立っている
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