ああ、そうか。」
「うぐい亭の庭も一所に、川も、山も、何年ぶりか、久しぶりで見る気がして、湯ざめで冷くなるまで、覗《のぞ》いたり、見廻したり、可哀想じゃありませんか。
 ――かきおきにあったんです――
 ハッと手をのばして、戸を内へ閉めました。不意に人が来たんですね。――それが細い白い手よ。」
「むむ、私のような奴だ。」
 と寂しく笑いつつ、毛肌になって悚《ぞっ》とした。
「ぎゃっと云って、その男が、凄《すさま》じい音で顛動返《ひっくりかえ》ってしまったんですってね。……夜番は駆けつけますわ、人は騒ぐ。気の毒さも、面目なさも通越して、ひけめのあるのは大火傷の顔のお化でしょう。
 もう身も世も断念《あきら》めて、すぐに死場所の、……鉄道線路へ……」
「厠《かわや》からすぐだろうか。」
「さあね、それがね、恥かしさと死ぬ気の、一念で、突き破ったんでしょうか。細い身体《からだ》なら抜けられるくらい古壁は落ちていたそうですけれど、手も浄《きよ》めずに出たなんぞって、そんなのは、お藻代さんの身に取って私は可厭《いや》。……それだとどこで遺書《かきおき》が出来ます。――轢《ひ》かれたのは、やっと夜《よ》の白みかかった時だっていうんですもの。もっとも(幽《かすか》なお月様の影をたよりに)そうかいてもあるんですけれども。一旦座敷へ帰ったんです。一生懸命、一大事、何かの時、魂も心も消えるといえば、姿だって、消えますわ。――三枚目の大男の目をまわしているまわりへ集まった連中の前は、霧のように、スッと通って、悠然と筧で手水をしたでしょう。」
「もの凄《すご》い。」
「でも、分らないのは、――新聞にも出ましたけれど、ちゃんと裾腰《すそごし》のたしなみはしてあるのに、衣《き》ものは、肌まで通って、ぐっしょり、ずぶ濡れだったんですって。……水ごりでも取りましたか、それとも途中の小川へでも落ちたんでしょうか。」
「ああ、縁台が濡れる。」
 と、お町の手を取って、位置を直して、慎重に言った。
「それにね、首……顔がないんです。あの、冷いほど、真白《まっしろ》な、乳も、腰も、手足も残して。……微塵《みじん》に轢《ひ》かれたんでしょう。血の池で、白魚が湧《わ》いたように、お藻代さんの、顔だの、頬だのが。
 堤防《どて》を離れた、電信のはりがねの上の、あの辺……崖の中途の椎《しい》の枝に、飛上った黒髪が
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