ともに歪《ゆが》んだと思うと、はらりと薫って、胸に冷《ひや》り、円髷《まるまげ》の手巾《ハンケチ》の落ちかかる、一重《ひとえ》だけは隔てたが、お町の両の手が、咄嗟《とっさ》に外套の袖をしごくばかりに引掴《ひきつか》んで、肩と袖で取縋《とりすが》った。片褄の襦袢が散って、山茶花《さざんか》のようにこぼれた。
 この身動《みじろ》ぎに、七輪の慈姑《くわい》が転げて、コンと向うへ飛んだ。一個《ひとつ》は、こげ目が紫立って、蛙の人魂《ひとだま》のように暗い土間に尾さえ曳《ひ》く。
 しばらくすると、息つぎの麦酒《ビイル》に、色を直して、お町が蛙の人魂の方を自分で食べ、至極尋常なのは、皮を剥《は》がして、おじさんに振舞ったくらいであるから。――次の話が、私はじめ、読者諸君も安心して聞くことを得るのである。

 一体、外套氏が、この際、いまの鹿落の白い手を言出したのは、決して怪談がかりに娘を怯《おど》かすつもりのものではなかった。近間ではあるし、ここを出たら、それこそ、ちちろ鳴く虫が糸を繰る音《ね》に紛れる、その椎樹《しいのき》――(釣瓶《つるべ》おろし)(小豆《あずき》とぎ)などいう怪《ばけ》ものは伝統的につきものの――樹の下を通って見たかった。車麩《くるまぶ》の鼠に怯《おび》えた様子では、同行を否定されそうな形勢だった処から、「お町さん、念仏を唱えるばかり吃驚《びっくり》した、厠《かわや》の戸の白い手も、先へ入っていた女が、人影に急いで扉《と》を閉めただけの事で、何でもないのだ。」と、おくれ馳《ば》せながら、正体見たり枯尾花流に――続いて説明に及ぶと、澄んで沈んだ真顔になって、鹿落の旅館の、その三つ並んだ真中《まんなか》の厠は、取壊して今はない筈《はず》だ、と言って、先手に、もう知っている。……
 はてな、そういえば、朝また、ようをたした時は、ここへ白い手が、と思う真中のは、壁が抜けて、不状《ぶざま》に壊れて、向うが薮畳《やぶだた》みになっていたのを思出す。……何、昨夜《ゆうべ》は暗がりで見損《みそこな》ったにして、一向気にも留めなかったのに。……
 ふと、おじさんの方が少し寒気立って、
「――そういえば真中《まんなか》のはなかったよ、……朝になると。……じゃあ何か仔細《わけ》があるのかい。」
「おじさん――それじゃ、おじさんは、幽霊を、見たんですね。」
「幽霊を。」
「も
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