をした峰が揺《ゆす》ぶれた。
夜《よる》の樹立の森々《しんしん》としたのは、山颪《やまおろし》に、皆……散果《ちりは》てた柳の枝の撓《しな》ふやうに見えて、鍵屋の軒《のき》を吹くのである。
透かすと……鍵屋の其の寂《さび》しい軒下《のきした》に、赤いものが並んで見えた。見る内に、霧が薄らいで、其が雫《しずく》に成るのか、赤いものは艶《つや》を帯びて、濡色《ぬれいろ》に立つたのは、紅玉《こうぎょく》の如き柿の実を売るさうな。
「一つ食べよう。」
迚《とて》も寝られぬ……次手《ついで》に、宿の前だけも歩行《ある》いて見よう、――
「遠くへ行《ゆ》かつせるな、天狗様《てんぐさま》が居ますぜえ。」
あり合はせた草履《ぞうり》を穿《は》いて出る時、亭主が声を掛けて笑つた。其の炉辺《ろべり》には、先刻《さっき》の按摩《あんま》の大入道《おおにゅうどう》が、やがて自在の中途《ちゅうと》を頭で、神妙らしく正整《しゃん》と坐つて。……胡坐《あぐら》掻《か》いて駕籠舁《かごかき》も二人居た。
沢は此方《こなた》の側伝《かわづた》ひ、鍵屋の店を謎《なぞ》を見る心持《ここち》で差覗《さしのぞ》きながら、一度|素通《すどお》りに、霧の中を、翌日《あす》行く方へ歩行《ある》いて見た。
少し行くと橋があつた。
驚いたのは、其の土橋《どばし》が、危《あぶな》つかしく壊《こわ》れ壊《ごわ》れに成つて居た事では無い。
渡掛《わたりか》けた橋の下は、深さ千仭《せんじん》の渓河《たにがわ》で、畳《たた》まり畳まり、犇々《ひしひし》と蔽累《おおいかさ》なつた濃い霧を、深く貫《つらぬ》いて、……峰裏《みねうら》の樹立を射《い》る月の光が、真蒼《まっさお》に、一条《ひとすじ》霧に映つて、底から逆《さかさ》に銀鱗《ぎんりん》の竜の、一畝《ひとうね》り畝《うね》つて閃《ひら》めき上《のぼ》るが如く見えた其の凄《すご》さであつた。
流《ながれ》の音は、ぐわうと云ふ。
沢は目《ま》のあたり、深山《しんざん》の秘密を感じて、其処《そこ》から後《あと》へ引返《ひっかえ》した。
帰りは、幹《みき》を並べた栃《とち》の木の、星を指す偉大なる円柱《まるばしら》に似たのを廻り廻つて、山際《やまぎわ》に添つて、反対の側《かわ》を鍵屋の前に戻つたのである。
「此の柿を一つ……」
「まあ、お掛けなさいましな。」
框《かまち》を納涼台《すずみだい》のやうにして、端近《はしぢか》に、小造《こづく》りで二十二三の婦《おんな》が、しつとりと夜露《よつゆ》に重さうな縞縮緬《しまちりめん》の褄《つま》を投げつゝ、軒下《のきした》を這《は》ふ霧を軽く踏んで、すらりと、くの字に腰を掛け、戸外《おもて》を視《なが》めて居たのを、沢は一目見て悚然《ぞっ》とした。月の明《あかる》い美人であつた。
が、櫛巻《くしまき》の髪に柔かな艶《つや》を見せて、背《せな》に、ごつ/\した矢張《やっぱ》り鬱金《うこん》の裏のついた、古い胴服《ちゃんちゃんこ》を着て、身に染《し》む夜寒《よさむ》を凌《しの》いで居たが、其の美人の身に着《つ》いたれば、宝蔵千年《ほうぞうせんねん》の鎧《よろい》を取つて投懸《なげか》けた風情《ふぜい》がある。
声も乱れて、
「お代《だい》は?」
「私は内のものではないの。でも可《よ》うござんす、めしあがれ。」
と爽《さわやか》な、清《すず》しいものいひ。
四
沢は、駕籠《かご》に乗つて蔵屋に宿つた病人らしい其と言ひ、鍵屋に此の思ひがけない都人《みやこびと》を見て、つい聞知《ききし》らずに居た、此の山には温泉《いでゆ》などあつて、それで逗留をして居るのであらう。
と先《ま》づ思つた。
処《ところ》が、聞いて見ると、然《そ》うで無い。唯《ただ》此処《ここ》の浮世離《うきよばな》れがして寂《さみ》しいのが気に入つたので、何処《どこ》にも行かないで居るのだと云ふ。
寂《さみ》しいにも、第一|此《こ》の家には、旅人の来て宿るものは一|人《にん》も無い、と茶店《ちゃみせ》で聞いた――泊《とまり》がさて無いばかりか、※[#「目+句」、第4水準2−81−91]《みまわ》して見ても、がらんとした古家《ふるいえ》の中に、其の婦《おんな》ばかり。一寸《ちょっと》鼠《ねずみ》も騒がねば、家族らしいものの影も見えぬ。
男たちは、疾《とう》から人里《ひとざと》へ稼《かせ》ぎに下《お》りて少時《しばらく》帰らぬ。内には女房と小娘が残つて居るが、皆向うの賑《にぎや》かな蔵屋の方へ手伝ひに行く。……商売敵《しょうばいがたき》も何も無い。只管《ひたすら》人懐《ひとなつ》かしさに、進んで、喜んで朝から出掛ける……一頃《ひところ》皆無《かいむ》だつた旅客《りょかく》が急に立籠《たてこ》んだ時分は固《もと》より、今夜なども木《こ》の葉《は》の落溜《おちたま》つたやうに方々から吹寄《ふきよ》せる客が十人の上もあらう。……其だと蔵屋の人数《にんず》ばかりでは手が廻りかねる。時とすると、膳《ぜん》、家具、蒲団《ふとん》などまで、此方《こっち》から持運《もちはこ》ぶのだ、と云ふのが、頃刻《しばらく》して美人《たおやめ》の話で分つた。
「家も此方《こっち》が立派ですね。」
「えゝ、暴風雨《あらし》の時に、蔵屋は散々に壊れたんですつて……此方《こちら》は裏に峰があつたお庇《かげ》で、旧《もと》のまゝだつて言ひますから……」
「其だに何故《なぜ》客が来ないんでせう。」
「貴下《あなた》、何もお聞きなさいませんか。」
「はあ。」
沢は実は其段《そのだん》心得《こころえ》て居た、為に口籠《くちごも》つた。
「お化《ばけ》が出ますとさ。」
痩《やせ》ぎすな顔に、清《きよ》い目を※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みは》つて、沢を見て微笑《ほほえ》んで云つた。
「嘘でせう。」
「まあ、泊つて御覧なさいませんか。」
はじめは串戯《じょうだん》らしかつたが、後《のち》は真個《まったく》誘《いざな》つた。
「是非《ぜひ》、然《そ》うなさいまし、お化が出ると云つて……而《そ》して婦《おんな》が一人で居るのを見て、お泊んなさらないでは卑怯《ひきょう》だわ。人身御供《ひとみごくう》に出会《でっくわ》せば、屹《きっ》と男が助けると極《きま》つたものなの……又、助けられる事に成つて居るんですもの。ね、然《そ》うなさい。」
で、退引《のっぴ》きあらせず。
「蔵屋の方は構ひません。一寸《ちょいと》、私が行つて断つて来て上げます。」
と気軽に、すつと出る、留南奇《とめき》の薫《かおり》が颯《さっ》と散つた、霧に月《つき》射《さ》す裳《もすそ》の影《かげ》は、絵で見るやうな友染《ゆうぜん》である。
沢は笊《ざる》に並んだ其の柿を鵜呑《うのみ》にしたやうに、ポンと成つた――実は……旅店《りょてん》の注意で、暴風雨《あらし》で変果《かわりは》てた此の前《さき》の山路《やまみち》を、朝がけの旅は、不案内のものに危険《けんのん》であるから、一同のするやうに、路案内《みちあんない》を雇《やと》へ、と云つた。……成程《なるほど》、途中の覚束《おぼつか》なさは、今見た橋の霧の中に穴の深いのでもよく知れる……寝るまでに必ず雇《やと》はう、と思つて居た、其の事を言ひ出す隙《ひま》も無かつたのである。
「お荷物は此《これ》だけですつてね、然《そ》う?……」
と革鞄《かばん》を袖《そで》で抱いて帰つて来たのが、打傾《うちかたむ》いて優しく聞く。
「恐縮です、恐縮です。」
沢は恐入《おそれい》らずには居られなかつた。鳶《とび》の羽《はね》には託《ことづ》けても、此の人の両袖に、――恁《か》く、なよなよと、抱取《だきと》らるべき革鞄ではなかつたから。
「宿で、道案内の事を心配して居ましたよ。其は可《い》いの、貴下《あなた》、頼まないでお置きなさいまし。途中の分らない処《ところ》は僅少《わずか》の間《あいだ》ですから、私がお見立て申すわ。逗留《とうりゅう》してよく知つて居ます。」
と入替《いれかわ》りに、軒《のき》に立つて、中に居る沢に恁《こ》う言ひながら、其の安からぬ顔を見て莞爾《にっこり》した。
「大丈夫よ。何が出たつて、私が無事で居るんですもの。さあ、お入んなさいまし。あゝ、寒いわね。」
と肩を細《ほっそ》り……廂《ひさし》はづれに空を仰いで、山の端《は》の月と顔《かんばせ》を合せた。
「最《も》う霜《しも》が下りるのよ、炉の処《ところ》で焚火《たきび》をしませうね。」
五
美女《たおやめ》は炉を囲んで、少く語つて多く聞いた。而《そ》して、沢が其の故郷《ふるさと》の話をするのを、もの珍らしく喜んだのである。
沢は、隔てなく身の上さへ話したが、しかし、十有余年《じゅうゆうよねん》崇拝する、都の文学者|某君《なにがしぎみ》の許《もと》へ、宿望《しゅくぼう》の入門が叶《かな》つて、其のために急いで上京する次第は、何故《なぜ》か、天機《てんき》を洩《も》らすと云ふやうにも思はれるし、又余り縁遠《えんどお》い、そんな事は分るまいと思つて言はなかつた。
蔵屋の門《かど》の戸が閉《しま》つて、山が月ばかり、真蒼《まっさお》に成つた時、此の鍵屋の母娘《おやこ》が帰つた。例の小女《こおんな》は其の娘で。
二人が帰つてから、寝床は二階の十畳の広間へ、母親が設けてくれて、其処《そこ》へ寝た――丁《ちょう》ど真夜中過ぎである。……
枕を削る山颪《やまおろし》は、激しく板戸《いたど》を挫《ひし》ぐばかり、髪を蓬《おどろ》に、藍色《あいいろ》の面《めん》が、斧《おの》を取つて襲ふかともの凄《すご》い。……心細さは鼠《ねずみ》も鳴かぬ。
其処《そこ》へ、茶を焙《ほう》じる、夜《よ》が明けたやうな薫《かおり》で、沢は蘇生《よみがえ》つた気がしたのである。
けれども、寝られぬ苦しさは、ものの可恐《おそろ》しさにも増して堪へられない。余りの人の恋しさに、起きて、身繕《みづくろ》ひして、行燈《あんどう》を提げて、便《たより》のないほど堂々広《だだっぴろ》い廊下を伝つた。
持つて下りた行燈《あんどう》は階子段《はしごだん》の下に差置《さしお》いた。下の縁《えん》の、ずつと奥の一室《ひとま》から、ほのかに灯《ひ》の影がさしたのである。
邪《よこしま》な心があつて、ために憚《はばか》られたのではないが、一足《ひとあし》づゝ、みし/\ぎち/\と響く……嵐《あらし》吹《ふき》添ふ縁《えん》の音は、恁《かか》る山家《やまが》に、おのれ魅《み》と成つて、歯を剥《む》いて、人を威《おど》すが如く思はれたので、忍んで密《そっ》と抜足《ぬきあし》で渡つた。
傍《そば》へ寄るまでもなく、大《おおき》な其の障子の破目《やれめ》から、立ちながら裡《うち》の光景《ようす》は、衣桁《いこう》に掛けた羽衣《はごろも》の手に取るばかりによく見える。
ト荒果《あれは》てたが、書院づくりの、床《とこ》の傍《わき》に、あり/\と彩色《さいしき》の残つた絵の袋戸《ふくろど》の入つた棚の上に、呀《やあ》! 壁を突通《つきとお》して紺青《こんじょう》の浪《なみ》あつて月の輝く如き、表紙の揃《そろ》つた、背皮に黄金《おうごん》の文字を刷《お》した洋綴《ようとじ》の書籍《ほん》が、ぎしりと並んで、燦《さん》として蒼《あお》き光を放つ。
美人《たおやめ》は其の横に、机を控へて、行燈《あんどう》を傍《かたわら》に、背《せな》を細く、裳《もすそ》をすらりと、なよやかに薄い絹の掻巻《かいまき》を肩から羽織《はお》つて、両袖《りょうそで》を下へ忘れた、双《そう》の手を包んだ友染《ゆうぜん》で、清らかな頸《うなじ》から頬杖《ほおづえ》支《つ》いて、繰拡《くりひろ》げたペイジを凝《じっ》と読入《よみい》つたのが、態度《ようす》で経文《きょうもん》を誦《じゅ》するとは思へぬけれども、神々《こうごう》しく、媚《なま》めかしく、然《しか》も婀娜《あだ》めいて見えたのである。
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