屋さん結構よ。何の卑下する処があります。私はそれが可羨《うらやま》しい。狗《いぬ》の子だか、猫の子だか、掃溜《はきだめ》ぐらいの小屋はあっても、縁の下なら宿なし同然。このお邸《やしき》へ来るまでは、私は、あれ、あの、菊の咲く、垣根さえ憚《はばか》って、この撫子と一所に倒れて、草の露に寝たんですよ。
りく あら、あんな事を。
その まあ……奥様。
撫子 その奥様と言われるのを、済まない済まない、勿体ない、と知っていながら、つい、浅はかに、一度が二度、三度めには幽《かすか》に返事をしていました。その罰が当ったんです。いまの庖丁が可恐《おそろし》い。私はね、南京出刃打《なんきんでばうち》の小屋者なんです。
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娘二人顔を見合わす。
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 俎《まないた》の上で切刻《きりきざ》まれ、磔《はりつけ》にもかかる処を、神様のような旦那様に救われました。その神様を、雪が積って、あの駒《こま》ヶ岳へあらわれる、清い気高い、白い駒、空におがんでいなければならないんだのに。女にうまれた一生の思出に、空耳でも、僻耳《ひがみみ》でも、奥さん、と言われたさに、いい気になって返事をして、確《たしか》に罰が当ったんです……ですが、この円髷《まるまげ》は言訳をするんじゃありませんけれど、そんな気なのではありません。一生涯|他《ほか》へはお嫁入りをしない覚悟、私は尼になった気です。……(涙ぐみつつ)もう、今からは怪我《けが》にだって、奥さんなんぞとおっしゃるなよ。おりくさん、おそのさん、更《あらた》めてお詫をします。
りく それでも、やっぱり奥さんですわ。ねえ、おそのさん。
その ええ、そうよ。
撫子 いいえ、いま思知ったんです、まったく罰が当りますから、私を可哀想《かわいそう》だとお思いなすったら、このお邸のおさんどん、いくや、いくや、とおっしゃってね、豆腐屋、薪屋《まきや》の方角をお教えなすって下さいまし。何にも知らない不束《ふつつか》なものですから、余所《よそ》の女中に虐《いじ》められたり、毛色の変った見世物《みせもの》だと、邸町《やしきまち》の犬に吠《ほ》えられましたら、せめて、貴女方《あなたがた》が御贔屓《ごひいき》に、私を庇《かば》って下さいな、後生ですわ、ええ。
その 私どうしたら可《い》いでしょう――こんなもの、掃溜へ打棄《うっちゃ》って来るわ。(立つ。)
撫子 ああ、靴の音が。
りく 旦那様のお帰りですね。
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村越欣弥《むらこしきんや》。高原七左衛門《たかはらしちざえもん》。登場。道を譲る。
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村越 ま、まあ、御老人。
七左 いや、まず……先生。
村越 先生は弱りました。(忸怩《じくじ》たり)では書生流です、御案内。
七左 その気象! その気象!
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撫子。出迎えんとして、ちょっと髷に手を遣《や》り、台所へ下らんとするおりくの手を無理に取って、並んで出迎う。
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撫子 お帰り遊ばせ。
村越 お客様に途中で逢《あ》ったよ。
撫子 (一度あげたる顔を、黙ってまた俯向《うつむ》き、手をつく。)
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七左。よう、という顔色《かおつき》にて、兀頭《はげあたま》の古帽を取って高く挙げ、皺《しわ》だらけにて、ボタン二つ離れたる洋服の胸を反らす。太きニッケル製の時計の紐《ひも》がだらりとあり。
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村越 さあ、どうぞ。
七左 御免、真平《まっぴら》御免。
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腰を屈《かが》め、摺足《すりあし》にて、撫子の前を通り、すすむる蒲団《ふとん》の座に、がっきと着く。
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撫子 ようおいで遊ばしました。
七左 ははっ、奥さん。(と倒《さかさ》になる。)
撫子 (手を支《つか》えたるまま、つつと退《すさ》る。)
村越 父、母の御懇意。伯父さん同然な方だ。――高原さん……それは余所《よそ》の娘です。
七左 (高らかに笑う)はッはッはッ、いずれ、そりゃ、そりゃ、いずれ、はッはッはッはッ。一度は余所の娘御には相違ないてな。いや、婆《ばばあ》どのも、かげながら伝え聞いて申しておる。村越の御子息が、目《ま》のあたり立身出世は格別じゃ、が、就中《なかんずく》、豪《えら》いのはこの働きじゃ。万一この手廻しがのうてみさっしゃい
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