義血侠血
泉鏡花
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)高岡《たかおか》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)越中|高岡《たかおか》
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(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「月+因」、6−15]脂《べに》
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一
越中|高岡《たかおか》より倶利伽羅下《くりからじた》の建場《たてば》なる石動《いするぎ》まで、四里八町が間を定時発の乗り合い馬車あり。
賃銭の廉《やす》きがゆえに、旅客はおおかた人力車を捨ててこれに便《たよ》りぬ。車夫はその不景気を馬車会社に怨《うら》みて、人と馬との軋轢《あつれき》ようやくはなはだしきも、わずかに顔役の調和によりて、営業上|相干《あいおか》さざるを装えども、折に触れては紛乱を生ずることしばしばなりき。
七月八日の朝、一番発の馬車は乗り合いを揃《そろ》えんとて、奴《やっこ》はその門前に鈴を打ち振りつつ、
「馬車はいかがです。むちゃに廉くって、腕車《くるま》よりお疾《はよ》うござい。さあお乗んなさい。すぐに出ますよ」
甲走《かんばし》る声は鈴の音《ね》よりも高く、静かなる朝の街《まち》に響き渡れり。通りすがりの婀娜者《あだもの》は歩みを停《とど》めて、
「ちょいと小僧さん、石動までいくら? なに十銭だとえ。ふう、廉いね。その代わりおそいだろう」
沢庵《たくあん》を洗い立てたるように色揚げしたる編片《アンペラ》の古帽子の下より、奴《やっこ》は猿眼《さるまなこ》を晃《きらめ》かして、
「ものは可試《ためし》だ。まあお召しなすってください。腕車よりおそかったら代は戴《いただ》きません」
かく言ううちも渠《かれ》の手なる鈴は絶えず噪《さわ》ぎぬ。
「そんなりっぱなことを言って、きっとだね」
奴は昂然《こうぜん》として、
「虚言《うそ》と坊主の髪《あたま》は、いったことはありません」
「なんだね、しゃらくさい」
微笑《ほおえ》みつつ女子《おんな》はかく言い捨てて乗り込みたり。
その年紀《としごろ》は二十三、四、姿はしいて満開の花の色を洗いて、清楚《せいそ》たる葉桜の緑浅し。色白く、鼻筋通り、眉《まゆ》に力みありて、眼色《めざし》にいくぶんのすごみを帯び、見るだに涼しき美人なり。
これはたして何者なるか。髪は櫛巻《くしま》きに束《つか》ねて、素顔を自慢に※[#「月+因」、6−15]脂《べに》のみを点《さ》したり。服装《いでたち》は、将棊《しょうぎ》の駒《こま》を大形に散らしたる紺縮みの浴衣《ゆかた》に、唐繻子《とうじゅす》と繻珍《しゅちん》の昼夜帯をばゆるく引っ掛けに結びて、空色|縮緬《ちりめん》の蹴出《けだ》しを微露《ほのめか》し、素足に吾妻下駄《あずまげた》、絹張りの日傘《ひがさ》に更紗《さらさ》の小包みを持ち添えたり。
挙止《とりなり》侠《きゃん》にして、人を怯《おそ》れざる気色《けしき》は、世磨《よず》れ、場慣れて、一条縄《ひとすじなわ》の繋《つな》ぐべからざる魂を表わせり。想《おも》うに渠《かれ》が雪のごとき膚《はだ》には、剳青淋漓《さっせいりんり》として、悪竜《あくりょう》焔《ほのお》を吐くにあらざれば、寡《すく》なくも、その左の腕《かいな》には、双枕《ふたつまくら》に偕老《かいろう》の名や刻みたるべし。
馬車はこの怪しき美人をもって満員となれり。発車の号令は割るるばかりにしばらく響けり。向者《さき》より待合所の縁に倚《よ》りて、一|篇《ぺん》の書を繙《ひもと》ける二十四、五の壮佼《わかもの》あり。盲縞《めくらじま》の腹掛け、股引《ももひ》きに汚《よご》れたる白小倉の背広を着て、ゴムの解《ほつ》れたる深靴《ふかぐつ》を穿《は》き、鍔広《つばびろ》なる麦稈《むぎわら》帽子を阿弥陀《あみだ》に被《かぶ》りて、踏ん跨《また》ぎたる膝《ひざ》の間に、茶褐色《ちゃかっしょく》なる渦毛《うずげ》の犬の太くたくましきを容《い》れて、その頭を撫《な》でつつ、専念に書見したりしが、このとき鈴の音《ね》を聞くと斉《ひと》しく身を起こして、ひらりと御者台に乗り移れり。
渠の形躯《かたち》は貴公子のごとく華車《きゃしゃ》に、態度は森厳《しんげん》にして、そのうちおのずから活溌《かっぱつ》の気を含めり。陋《いや》しげに日に※[#「犂」の「牛」に代えて「黒の旧字」、第4水準2−94−60]《くろ》みたる面《おもて》も熟視《よくみ》れば、清※[#「目+盧」、7−12]明眉《せいろめいび》、相貌《そうぼう》秀《ひい》でて尋常《よのつね》ならず。とかくは馬蹄《ばてい》の塵《ちり》に塗《まみ》れて鞭《べん》を揚《あ》ぐるの輩《はい》にあらざるなり。
御者は書巻を腹掛けの衣兜《かくし》に収め、革紐《かわひも》を附《つ》けたる竹根の鞭《むち》を執《と》りて、徐《しず》かに手綱を捌《さば》きつつ身構うるとき、一|輛《りょう》の人力車ありて南より来たり、疾風のごとく馬車のかたわらを掠《かす》めて、瞬《またた》く間《ひま》に一点の黒影となり畢《おわ》んぬ。
美人はこれを望みて、
「おい小僧さん、腕車《くるま》よりおそいじゃないか」
奴のいまだ答えざるに先だちて、御者はきと面を抗《あ》げ、かすかになれる車の影を見送りて、
「吉公、てめえまた腕車より疾《はえ》えといったな」
奴は愛嬌《あいきょう》よく頭を掻《か》きて、
「ああ、言った。でもそう言わねえと乗らねえもの」
御者は黙して頷《うなず》きぬ。たちまち鞭の鳴るとともに、二頭の馬は高く嘶《いなな》きて一文字に跳《は》ね出《い》だせり。不意を吃《くら》いたる乗り合いは、座に堪《たま》らずしてほとんど転《まろ》び墜《お》ちなんとせり。奔馬《ほんば》は中《ちゅう》を駈《か》けて、見る見る腕車を乗っ越したり。御者はやがて馬の足掻《あが》きを緩《ゆる》め、渠に先を越させぬまでに徐々として進行しつ。
車夫は必死となりて、やわか後《おく》れじと焦《あせ》れども、馬車はさながら月を負いたる自家《おのれ》の影のごとく、一歩を進むるごとに一歩を進めて、追えども追えども先んじがたく、ようよう力衰え、息|逼《せま》りて、今や殪《たお》れぬべく覚ゆるころ、高岡より一里を隔つる立野《たての》の駅に来たりぬ。
この街道《かいどう》の車夫は組合を設けて、建場建場に連絡を通ずるがゆえに、今この車夫が馬車に後《おく》れて、喘《あえ》ぎ喘ぎ走るを見るより、そこに客待ちせる夥間《なかま》の一人は、手に唾《つば》して躍《おど》り出で、
「おい、兄弟《きょうでえ》しっかりしなよ。馬車の畜生どうしてくりょう」
やにわに対曳《さしび》きの綱を梶棒《かじぼう》に投げ懸《か》くれば、疲れたる車夫は勢いを得て、
「ありがてえ! 頼むよ」
「合点《がってん》だい!」
それと言うまま挽《ひ》き出だせり。二人の車夫は勇ましく相呼び相応《あいこた》えつつ、にわかに驚くべき速力をもて走りぬ。やがて町はずれの狭く急なる曲がりかどを争うと見えたりしが、人力車《くるま》は無二無三に突進して、ついに一歩を抽《ぬ》きけり。
車夫は諸声《いっせい》に凱歌《かちどき》を揚げ、勢いに乗じて二歩を抽き、三歩を抽き、ますます馳《は》せて、軽迅|丸《たま》の跳《おど》るがごとく二、三間を先んじたり。
向者《さきのほど》は腕車を流眄《しりめ》に見て、いとも揚々たりし乗り合いの一人《いちにん》は、
「さあ、やられた!」と身を悶《もだ》えて騒げば、車中いずれも同感の色を動かして、力瘤《ちからこぶ》を握るものあり、地蹈※[#「韋+鞴のつくり」、第3水準1−93−84]《じだたら》を踏むもあり、奴を叱《しっ》してしきりに喇叭《らっぱ》を吹かしむるもあり。御者は縦横に鞭を揮《ふる》いて、激しく手綱を掻《か》い繰れば、馬背の流汗|滂沱《ぼうだ》として掬《きく》すべく、轡頭《くつわづら》に噛《は》み出《い》だしたる白泡《しろあわ》は木綿《きわた》の一袋もありぬべし。
かかるほどに車体は一上一下と動揺して、あるいは頓挫《とんざ》し、あるいは傾斜し、ただこれ風の落ち葉を捲《ま》き、早瀬の浮き木を弄《もてあそ》ぶに異ならず。乗り合いは前後に俯仰《ふぎょう》し、左右に頽《なだ》れて、片時《へんじ》も安き心はなく、今にもこの車|顛覆《くつがえ》るか、ただしはその身投げ落とさるるか。いずれも怪我《けが》は免《のが》れぬところと、老いたるは震い慄《おのの》き、若きは凝瞳《すえまなこ》になりて、ただ一秒ののちを危ぶめり。
七、八町を競争して、幸いに別条なく、馬車は辛くも人力車を追い抽きぬ。乗り合いは思わず手を拍《う》ちて、車も憾《うご》くばかりに喝采《かっさい》せり。奴は凱歌《かちどき》の喇叭を吹き鳴らして、後《おく》れたる人力車を麾《さしまね》きつつ、踏み段の上に躍れり。ひとり御者のみは喜ぶ気色《けしき》もなく、意《こころ》を注ぎて馬を労《いたわ》り駈《か》けさせたり。
怪しき美人は満面に笑《え》みを含みて、起伏常ならざる席に安んずるを、隣たる老人は感に堪えて、
「おまえさんどうもお強い。よく血の道が発《おこ》りませんね。平気なものだ、女丈夫《おとこまさり》だ。私《わたし》なんぞはからきし意気地《いくじ》はない。それもそのはずかい、もう五十八だもの」
その言《ことば》の訖《お》わらざるに、車は凸凹路《でこぼこみち》を踏みて、がたくりんと跌《つまず》きぬ。老夫《おやじ》は横様に薙仆《なぎたお》されて、半ば禿《は》げたる法然頭《ほうねんあたま》はどっさりと美人の膝に枕《まくら》せり。
「あれ、あぶない!」
と美人はその肩をしかと抱《いだ》きぬ。
老夫はむくむく身を擡《もた》げて、
「へいこれは、これはどうもはばかり様。さぞお痛うございましたろう。御免なすってくださいましよ。いやはや、意気地はありません。これさ馬丁《べっとう》さんや、もし若い衆《しゅ》さん、なんと顛覆《ひっくりかえ》るようなことはなかろうの」
御者は見も返らず、勢|籠《こ》めたる一|鞭《べん》を加えて、
「わかりません。馬が跌きゃそれまででさ」
老夫は眼《め》を円《まる》くして狼狽《うろた》えぬ。
「いやさ、転《ころ》ばぬ前《さき》の杖《つえ》だよ。ほんにお願いだ、気を着けておくれ。若い人と違って年老《としより》のことだ、放《ほう》り出されたらそれまでだよ。もういいかげんにして、徐々《やわやわ》とやってもらおうじゃないか。なんと皆さんどうでございます」
「船に乗れば船頭任せ。この馬車にお乗んなすった以上は、わたしに任せたものとして、安心しなければなりません」
「ええ途方もない。どうして安心がなるものか」
呆《あき》れはてて老夫は呟《つぶや》けば、御者ははじめて顧みつ。
「それで安心ができなけりゃ、御自分の脚《あし》で歩くです」
「はいはい。それは御深切に」
老夫は腹だたしげに御者の面《かお》を偸視《とうし》せり。
後れたる人力車は次の建場にてまた一人を増して、後押《あとお》しを加えたれども、なおいまだ逮《およ》ばざるより、車夫らはますます発憤して、悶《もだ》ゆる折から松並み木の中ほどにて、前面《むかい》より空車《からぐるま》を挽《ひ》き来たる二人の車夫に出会いぬ。行き違いさまに、綱曳《つなひ》きは血声《ちごえ》を振り立て、
「後生だい、手を仮《か》してくんねえか。あの瓦多《がた》馬車の畜生、乗っ越さねえじゃ」
「こっとらの顔が立たねえんだ」と他の一箇《ひとり》は叫べり。
血気事を好む徒《てあい》は、応と言うがままにその車を道ばたに棄《す》てて、総勢五人の車夫は揉《も》みに揉んで駈けたりければ、二、三町ならずして敵に逐《お》い着き、しばらくは相並びて互いに一歩を争いぬ。
そのとき車夫はいっせいに吶喊《とっかん》して馬を駭《おど》ろかせり。馬は懾《おび》えて躍り狂いぬ。車はこれがために傾斜して、まさ
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