すますまじめにて、
「水芸の太夫? ははあ、それじゃこのごろ評判の……」
 かく言いつつ珍しげに女の面《おもて》を※[#「(虍/助のへん)+見」、第4水準2−88−41]《のぞ》きぬ。白糸はさっと赧《あから》む顔を背《そむ》けつつ、
「ああもうたくさん、堪忍《かに》しておくれよ」
「滝の白糸というのはおまえさんか」
 白糸は渠の語《ことば》を手もて制しつ。
「もういいってばさ!」
「うん、なるほど!」と心の問うところに答え得たる風情《ふぜい》にて、欣弥は頷《うなず》けり。白糸はいよいよ羞じらいて、
「いやだよ、もう。何がなるほどなんだね」
「非常にいい女だと聞いていたが、なるほど……」
「もういいってばさ」
 つと身を寄せて、白糸はやにわに欣弥を撞《つ》きたり。
「ええあぶねえ! いい女だからいいと言うのに、撞き飛ばすことはないじゃないか」
「人をばかにするからさ」
「ばかにするものか。実に美しい、何歳《いくつ》になるのだ」
「おまえさん何歳《いくつ》になるの?」
「私は二十六だ」
「おや六なの? まだ若いねえ。私なんぞはもう婆《ばばあ》だね」
「何歳《いくつ》さ」
「言うと愛想を尽かされるからいや」
「ばかな! ほんとに何歳だよ」
「もう婆だってば。四さ」
「二十四か! 若いね。二十歳《はたち》ぐらいかと想《おも》った」
「何か奢《おご》りましょうよ」
 白糸は帯の間より白|縮緬《ちりめん》の袱紗《ふくさ》包みを取り出だせり。解《ひら》けば一束の紙幣を紙包みにしたるなり。
「これに三十円あります。まあこれだけ進《あ》げておきますから、家《うち》の処置《かた》をつけて、一日も早く東京へおいでなさいな」
「家《うち》の処置といって、別に金円《かね》の要《い》るようなことはなし、そんなには要らない」
「いいからお持ちなさいよ」
「全額《みんな》もらったらおまえさんが窮《こま》るだろう」
「私はまた明日《あす》入《はい》る口があるからさ」
「どうも済まんなあ」
 欣弥は受け取りたる紙幣を軽《かろ》く戴《いただ》きて懐《ふところ》にせり。時に通り懸かりたる夜稼ぎの車夫は、怪しむべき月下の密会を一瞥《いちべつ》して、
「お合い乗り、都合で、いかがで」
 渠は愚弄《ぐろう》の態度を示して、両箇《ふたり》のかたわらに立ち住《ど》まりぬ。白糸はわずかに顧眄《みかえ》りて、棄《す》つるがごとく言い放てり。
「要らないよ」
「そうおっしゃらずにお召しなすって。へへへへへ」
「なんだね、人をばかにして。一人《いちにん》乗りに同乗《あいのり》ができるかい」
「そこはまたお話合いで、よろしいようにしてお乗んなすってください」
 おもしろ半分に※[#「夕/寅」、第4水準2−5−29]《まつわ》るを、白糸は鼻の端《さき》に遇《あしら》いて、
「おまえもとんだ苦労性だよ。他《ひと》のことよりは、早く還《かえ》って、内君《うちの》でも悦《よろこ》ばしておやんな」
 さすがに車夫もこの姉御の与《くみ》しやすからざるを知りぬ。
「へい、これははばかり様。まああなたもお楽しみなさいまし」
 渠は直ちに踵《きびす》を回《めぐ》らして、鼻唄《はなうた》まじりに行き過ぎぬ。欣弥は何思いけん、
「おい、車夫《くるまや》!」とにわかに呼び住《と》めたり。
 車夫《しゃふ》は頭《かしら》を振り向けて、
「へえ、やっぱりお合い乗りですかね」
「ばか言え! 伏木《ふしき》まで行くか」
 渠の答うるに先だちて、白糸は驚きかつ怪しみて問えり。
「伏木……あの、伏木まで?」
 伏木はけだし上都《じょうと》の道、越後直江津《えちごなおえつ》まで汽船便ある港なり。欣弥は平然として、
「これからすぐに発《た》とうと思う」
「これから※[#疑問符感嘆符、1−8−77]」と白糸はさすがに心《むね》を轟《とどろ》かせり。
 欣弥は頷きたりし頭《かしら》をそのまま低《た》れて、見るべき物もあらぬ橋の上に瞳《ひとみ》を凝らしつつ、その胸中は二途の分別を追うに忙しかりき。
「これからとはあんまり早急じゃありませんか。まだお話したいこともあるのだから、今夜はともかくも、ねえ」
 一面は欣弥を説き、一面は車夫に向かい、
「若い衆《しゅ》さん、済まないけれど、これを持って行っとくれよ」
 渠が紙入れを捜《さぐ》るとき、欣弥はあわただしく、
「車夫《くるまや》、待っとれ。行っちゃいかんぜ」
「あれさ、いいやね。さあ、若い衆さんこれを持って行っとくれよ」
 五銭の白銅を把《と》りて、まさに渡さんとせり。欣弥はその間《なか》に分け入りて、
「少し都合があるのだから、これから遣《や》ってくれ」
 渠は十分に決心の色を露わせり。白糸はとうていその動かす能わざるを覚《さと》りて、潔く未練を棄《す》てぬ。
「そう。それじゃ無
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