御者は書巻を腹掛けの衣兜《かくし》に収め、革紐《かわひも》を附《つ》けたる竹根の鞭《むち》を執《と》りて、徐《しず》かに手綱を捌《さば》きつつ身構うるとき、一|輛《りょう》の人力車ありて南より来たり、疾風のごとく馬車のかたわらを掠《かす》めて、瞬《またた》く間《ひま》に一点の黒影となり畢《おわ》んぬ。
 美人はこれを望みて、
「おい小僧さん、腕車《くるま》よりおそいじゃないか」
 奴のいまだ答えざるに先だちて、御者はきと面を抗《あ》げ、かすかになれる車の影を見送りて、
「吉公、てめえまた腕車より疾《はえ》えといったな」
 奴は愛嬌《あいきょう》よく頭を掻《か》きて、
「ああ、言った。でもそう言わねえと乗らねえもの」
 御者は黙して頷《うなず》きぬ。たちまち鞭の鳴るとともに、二頭の馬は高く嘶《いなな》きて一文字に跳《は》ね出《い》だせり。不意を吃《くら》いたる乗り合いは、座に堪《たま》らずしてほとんど転《まろ》び墜《お》ちなんとせり。奔馬《ほんば》は中《ちゅう》を駈《か》けて、見る見る腕車を乗っ越したり。御者はやがて馬の足掻《あが》きを緩《ゆる》め、渠に先を越させぬまでに徐々として進行しつ。
 車夫は必死となりて、やわか後《おく》れじと焦《あせ》れども、馬車はさながら月を負いたる自家《おのれ》の影のごとく、一歩を進むるごとに一歩を進めて、追えども追えども先んじがたく、ようよう力衰え、息|逼《せま》りて、今や殪《たお》れぬべく覚ゆるころ、高岡より一里を隔つる立野《たての》の駅に来たりぬ。
 この街道《かいどう》の車夫は組合を設けて、建場建場に連絡を通ずるがゆえに、今この車夫が馬車に後《おく》れて、喘《あえ》ぎ喘ぎ走るを見るより、そこに客待ちせる夥間《なかま》の一人は、手に唾《つば》して躍《おど》り出で、
「おい、兄弟《きょうでえ》しっかりしなよ。馬車の畜生どうしてくりょう」
 やにわに対曳《さしび》きの綱を梶棒《かじぼう》に投げ懸《か》くれば、疲れたる車夫は勢いを得て、
「ありがてえ! 頼むよ」
「合点《がってん》だい!」
 それと言うまま挽《ひ》き出だせり。二人の車夫は勇ましく相呼び相応《あいこた》えつつ、にわかに驚くべき速力をもて走りぬ。やがて町はずれの狭く急なる曲がりかどを争うと見えたりしが、人力車《くるま》は無二無三に突進して、ついに一歩を抽《ぬ》きけり。
 車夫は諸声《いっせい》に凱歌《かちどき》を揚げ、勢いに乗じて二歩を抽き、三歩を抽き、ますます馳《は》せて、軽迅|丸《たま》の跳《おど》るがごとく二、三間を先んじたり。
 向者《さきのほど》は腕車を流眄《しりめ》に見て、いとも揚々たりし乗り合いの一人《いちにん》は、
「さあ、やられた!」と身を悶《もだ》えて騒げば、車中いずれも同感の色を動かして、力瘤《ちからこぶ》を握るものあり、地蹈※[#「韋+鞴のつくり」、第3水準1−93−84]《じだたら》を踏むもあり、奴を叱《しっ》してしきりに喇叭《らっぱ》を吹かしむるもあり。御者は縦横に鞭を揮《ふる》いて、激しく手綱を掻《か》い繰れば、馬背の流汗|滂沱《ぼうだ》として掬《きく》すべく、轡頭《くつわづら》に噛《は》み出《い》だしたる白泡《しろあわ》は木綿《きわた》の一袋もありぬべし。
 かかるほどに車体は一上一下と動揺して、あるいは頓挫《とんざ》し、あるいは傾斜し、ただこれ風の落ち葉を捲《ま》き、早瀬の浮き木を弄《もてあそ》ぶに異ならず。乗り合いは前後に俯仰《ふぎょう》し、左右に頽《なだ》れて、片時《へんじ》も安き心はなく、今にもこの車|顛覆《くつがえ》るか、ただしはその身投げ落とさるるか。いずれも怪我《けが》は免《のが》れぬところと、老いたるは震い慄《おのの》き、若きは凝瞳《すえまなこ》になりて、ただ一秒ののちを危ぶめり。
 七、八町を競争して、幸いに別条なく、馬車は辛くも人力車を追い抽きぬ。乗り合いは思わず手を拍《う》ちて、車も憾《うご》くばかりに喝采《かっさい》せり。奴は凱歌《かちどき》の喇叭を吹き鳴らして、後《おく》れたる人力車を麾《さしまね》きつつ、踏み段の上に躍れり。ひとり御者のみは喜ぶ気色《けしき》もなく、意《こころ》を注ぎて馬を労《いたわ》り駈《か》けさせたり。
 怪しき美人は満面に笑《え》みを含みて、起伏常ならざる席に安んずるを、隣たる老人は感に堪えて、
「おまえさんどうもお強い。よく血の道が発《おこ》りませんね。平気なものだ、女丈夫《おとこまさり》だ。私《わたし》なんぞはからきし意気地《いくじ》はない。それもそのはずかい、もう五十八だもの」
 その言《ことば》の訖《お》わらざるに、車は凸凹路《でこぼこみち》を踏みて、がたくりんと跌《つまず》きぬ。老夫《おやじ》は横様に薙仆《なぎたお》されて、半ば禿《は》げ
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