のにねえ」
「行けりゃ行くさ。そこが浮き世じゃないか」
 白糸は軽《かろ》く小|膝《ひざ》を拊《う》ちて、
「黄金《かね》の世の中ですか」
「地獄の沙汰《さた》さえ、なあ」
 再び馭者は苦笑いせり。
 白糸は事もなげに、
「じゃあなた、お出《い》でなさいな、ねえ、東京へさ。もし、腹を立っちゃいけませんよ、失礼だが、私が仕送ってあげようじゃありませんか」
 深沈なる馭者の魂も、このとき跳《おど》るばかりに動《ゆらめ》きぬ。渠は驚くよりむしろ呆れたり。呆るるよりむしろ慄《おのの》きたるなり。渠は色を変えて、この美しき魔性《ましょう》のものを睨《ね》めたりけり。さきに半円の酒銭《さかて》を投じて、他の一銭よりも吝《お》しまざりしこの美人の胆《たん》は、拾人の乗り合いをしてそぞろに寒心せしめたりき。銀貨一片に※[#「目+登」、第3水準1−88−91]目《とうもく》せし乗り合いよ、君らをして今夜天神橋上の壮語を聞かしめなば、肝胆たちまち破れて、血は耳に迸出《ほとばし》らん。花顔柳腰の人、そもそもなんじは狐狸《こり》か、変化《へんげ》か、魔性か。おそらくは※[#「月+因」、35−8]脂《えんし》の怪物なるべし。またこれ一種の魔性たる馭者だも驚きかつ慄けり。
 馭者は美人の意《こころ》をその面《おもて》に読まんとしたりしが、能《あた》わずしてついに呻《うめ》き出だせり。
「なんだって?」
 美人も希有《けう》なる面色《おももち》にて反問せり。
「なんだってとは?」
「どういうわけで」
「わけも何もありはしない、ただおまえさんに仕送りがしてみたいのさ」
「酔興な!」と馭者はその愚に唾《つば》するがごとく独語《ひとりご》ちぬ。
「酔興さ。私も酔興だから、おまえさんも酔興に一番《ひとつ》私の志を受けてみる気はなしかい。ええ、金さん、どうだね」
 馭者はしきりに打ち案じて、とこうの分別に迷いぬ。
「そんなに慮《かんが》えることはないじゃないか」
「しかし、縁も由縁《ゆかり》もないものに……」
「縁というものも始めは他人どうし。ここでおまえさんが私の志を受けてくだされば、それがつまり縁になるんだろうじゃありませんかね」
「恩を受ければ報《かえ》さんければならぬ義務がある。その責任が重いから……」
「それで断わるとお言いのかい。なんだねえ、報恩《おんがえし》ができるの、できないのと、そんなことを苦にするおまえさんでもなかろうじゃないか。私だって泥坊に伯父《おじ》さんがあるのじゃなし、知りもしない人を捉《つかま》えて、やたらにお金を貢《みつ》いでたまるものかね。私はおまえさんだから貢いでみたいのさ。いくらいやだとお言いでも、私は貢ぐよ。後生《ごしょう》だから貢がしてくださいよ。ねえ、いいでしょう、いいよう! うんとお言いよ。構うものかね、遠慮も何も要《い》るものじゃない。私はおまえさんの希望《のぞみ》というのが※[#「りっしんべん+(匚<夾)」、第3水準1−84−56]《かな》いさえすれば、それでいいのだ。それが私への報恩《おんがえし》さ、いいじゃないか。私はおまえさんはきっとりっぱな人物《ひと》になれると想《おも》うから、ぜひりっぱな人物にしてみたくってたまらないんだもの。後生だから早く勉強して、りっぱな人物になってくださいよう」
 その音《おん》柔媚《じゅうび》なれども言々風霜を挟《さしはさ》みて、凛《りん》たり、烈たり。馭者は感奮して、両眼に熱涙を浮かべ、
「うん、せっかくのお志だ。ご恩に預かりましょう」
 渠は襟《きん》を正して、うやうやしく白糸の前に頭《かしら》を下げたり。
「なんですねえ、いやに改まってさ。そう、そんなら私の志を受けてくださるの?」
 美人は喜色満面に溢《あふ》るるばかりなり。
「お世話になります」
「いやだよ、もう金さん、そんなていねいな語《ことば》を遣《つか》われると、私は気が逼《つま》るから、やっぱり書生言葉を遣ってくださいよ。ほんとに凛々《りり》しくって、私は書生言葉は大好きさ」
「恩人に向かって済まんけれども、それじゃぞんざいな言葉を遣おう」
「ああ、それがいいんですよ」
「しかしね、ここに一つ窮《こま》ったのは、私が東京へ行ってしまうと、母親がひとりで……」
「それは御心配なく。及ばずながら私がね……」
 馭者は夢みる心地《ここち》しつつ耳を傾けたり。白糸は誠を面《おもて》に露《あら》わして、
「きっとお世話をしますから」
「いや、どうも重ね重ね、それでは実に済まん。私もこの報恩《おんがえし》には、おまえさんのために力の及ぶだけのことはしなければならんが、何かお所望《のぞみ》はありませんか」
「だからさ、私の所望はおまえさんの希望が※[#「りっしんべん+(匚<夾)」、第3水準1−84−56]《かな》いさえすれば……
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