。御者は框《かまち》に息《いこ》いて巻き莨《たばこ》を燻《くゆら》しつつ茶店の嚊《かか》と語《ものがた》りぬ。
「こりゃ急に出そうもない」と一人が呟《つぶや》けば、田舎《いなか》女房と見えたるがその前面《むかい》にいて、
「憎々しく落ち着いてるじゃありませんかね」
 最初の発言者《はつごんしゃ》はますます堪えかねて、
「ときに皆さん、あのとおり御者も骨を折りましたんですから、お互い様にいくらか酒手を奮《はず》みまして、もう一骨折ってもらおうじゃございませんか。なにとぞ御賛成を願います」
 渠は直ちに帯佩《おびさ》げの蟇口《がまぐち》を取り出して、中なる銭を撈《さぐ》りつつ、
「ねえあなた、ここでああ惰《なま》けられてしまった日には、仏造って魂入れずでさ、冗談じゃない」
 やがて銅貨三銭をもって隗《かい》より始めつ。帽子を脱ぎてその中に入れたるを、衆人《ひとびと》の前に差し出して、渠はあまねく義捐《ぎえん》を募れり。
 あるいは勇んで躍り込みたる白銅あり。あるいはしぶしぶ捨てられたる五厘もあり。ここの一銭、かしこの二銭、積もりて十六銭五厘とぞなりにける。
 美人は片すみにありて、応募の最終なりき。隗の帽子は巡回して渠の前に着せるとき、世話人は辞《ことば》を卑《ひく》うして挨拶《あいさつ》せり。
「とんだお附《つ》き合いで、どうもおきのどく様でございます」
 美人は軽《かろ》く会釈するとともに、その手は帯の間に入りぬ。小菊にて上包みせる緋塩瀬《ひしおぜ》の紙入れを開きて、渠はむぞうさに半円銀貨を投げ出だせり。
 余所目《よそめ》に瞥《み》たる老夫はいたく驚きて面《かお》を背《そむ》けぬ、世話人は頭を掻《か》きて、
「いや、これは剰銭《おつり》が足りない。私もあいにく小《こま》かいのが……」
 と腰なる蟇口に手を掛くれば、
「いいえ、いいんですよ」
 世話人は呆《あき》れて叫びぬ。
「これだけ? 五十銭!」
 これを聞ける乗り合いは、さなきだに、何者なるか、怪しき別品と目を着けたりしに、今この散財《きれはなれ》の婦女子《おんな》に似気なきより、いよいよ底気味悪く訝《いぶか》れり。
 世話人は帽子を揺り動かして銭を鳴らしつつ、
「〆《しめ》て金六十六銭と五厘! たいしたことになりました。これなら馬は駈けますぜ」
 御者はすでに着席して出発の用意せり。世話人は酒手を紙に包みて持ち行きつ。
「おい、若い衆さん、これは皆さんからの酒手だよ。六十六銭と五厘あるのだ。なにぶんひとつ奮発してね。頼むよ」
 渠は気軽に御者の肩を拊《たた》きて、
「隊長、一晩遊べるぜ」
 御者は流眄《ながしめ》に紙包みを見遣《みや》りて空嘯《そらうそぶ》きぬ。
「酒手で馬は動きません」
 わずかに五銭六厘を懐《ふところ》にせる奴は驚きかつ惜しみて、有意的《こころありげ》に御者の面《おもて》を眺《なが》めたり。好意を無にせられたる世話人は腹立ちて、
「せっかく皆さんが下さるというのに、それじゃいらないんだね」
 車は徐々として進行せり。
「戴《いただ》く因縁がありませんから」
「そんな生意気なことを言うもんじゃない。骨折り賃だ。まあ野暮を言わずに取っときたまえてことさ」
 六十六銭五厘はまさに御者のポケットに闖入《ちんにゅう》せんとせり。渠は固《かた》く拒《こば》みて、
「思し召しはありがとうございますが、規定《きめ》の賃銭のほかに骨折り賃を戴く理由《わけ》がございません」
 世話人は推し返されたる紙包みを持て扱いつつ、
「理由《わけ》も糸瓜《へちま》もあるものかな。お客が与《くれ》るというんだから、取っといたらいいじゃないか。こういうものを貰《もら》って済まないと思ったら、一骨折って今の腕車《くるま》を抽《ぬ》いてくれたまえな」
「酒手なんぞは戴かなくっても、十分骨は折ってるです」
 世話人は冷笑《あざわら》いぬ。
「そんなりっぱな口を※[#「口+世」、16−16]《き》いたって、約束が違や世話はねえ」
 御者はきと振り顧《かえ》りて、
「なんですと?」
「この馬車は腕車より迅《はや》いという約束だぜ」
 儼然《げんぜん》として御者は答えぬ。
「そんなお約束はしません」
「おっと、そうは言わせない。なるほど私たちにはしなかったが、この姉《ねえ》さんにはどうだい。六十六銭五厘のうち、一人で五十銭の酒手をお出しなすったのはこのかただよ。あの腕車より迅く行ってもらおうと思やこそ、こうして莫大《ばくだい》な酒手も奮《はず》もうというのだ。どうだ、先生、恐れ入ったか」
 鼻|蠢《うごめ》かして世話人は御者の背《そびら》を指もて撞《つ》きぬ。渠は一言《いちごん》を発せず、世話人はすこぶる得意なりき。美人は戯るるがごとくに詰《なじ》れり。
「馬丁さん、ほんとに約束だよ、どうしたっ
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