《すく》いを求めたりしは、このときの血声なりき。
「あった、あった」と一個《ひとり》の賊は呼びぬ。
「あったか、あったか」と両三人の声は※[#「應」の「心」に代えて「言」、53−13]《こた》えぬ。
 白糸は猿轡《さるぐつわ》を吃《はま》されて、手取り足取り地上に推し伏せられつ。されども渠は絶えず身を悶《もだ》えて、跋《は》ね覆《か》えさんとしたりしなり。にわかに渠らの力は弛《ゆる》みぬ。虚《すか》さず白糸は起き復《かえ》るところを、はたと※[#「足へん+易」、第4水準2−89−38]仆《けたお》されたり。賊はその隙《ひま》に逃げ失《う》せて行くえを知らず。
 惜しみても、惜しみてもなお余りある百金は、ついに還《かえ》らざるものとなりぬ。白糸の胸中は沸くがごとく、焚《も》ゆるがごとく、万感の心《むね》を衝《つ》くに任せて、無念|已《や》む方《かた》なき松の下蔭《したかげ》に立ち尽くして、夜の更《ふ》くるをも知らざりき。
「ああ、しかたがない、何も約束だと断念《あきら》めるのだ。なんの百ぐらい! 惜しくはないけれど、欣さんに済まない。さぞ欣さんが困るだろうねえ。ええ、どうしよう、どうしたらよかろう※[#疑問符感嘆符、1−8−77]」
 渠はひしとわが身を抱《いだ》きて、松の幹に打ち当てつ。ふとかたわらを見れば、漾々《ようよう》たる霞が池は、霜の置きたるように微黯《ほのぐら》き月影を宿せり。
 白糸の眼色《めざし》はその精神の全力を鍾《あつ》めたるかと覚しきばかりの光を帯びて、病めるに似たる水の面《おも》を屹《き》と視《み》たり。
「ええ、もうなんともかとも謂《い》えないいやな心地《こころもち》だ。この水を飲んだら、さぞ胸が清々するだろう! ああ死にたい。こんな思いをするくらいなら死んだほうがましだ。死のう! 死のう!」
 渠は胸中の劇熱を消さんがために、この万斛《ばんこく》の水をば飲み尽くさんと覚悟せるなり。渠はすでに前後を忘じて、一心死を急ぎつつ、蹌踉《よろよろ》と汀《みぎわ》に寄れば、足下《あしもと》に物ありて晃《きらめ》きぬ。思わず渠の目はこれに住《とど》まりぬ。出刃庖丁なり! 
 これ悪漢が持てりし兇器《きょうき》なるが、渠らは白糸を手籠《てご》めにせしとき、かれこれ悶着《もんちゃく》の間に取り遺《おと》せしを、忘れて捨て行きたるなり。
 白糸はたちまち慄然《
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