き》さで、しかもぼやけた工合《ぐあい》が、どう見ても神経衰弱というのに違いない。
 何と……そして、この革鞄の中で声がする、と夜中に騒ぎ出したろうではないか。
 私は枕を擡《もた》げずにはいられなかった。
 時に、当人は、もう蒲団《ふとん》から摺出《ずりだ》して、茶縞《ちゃじま》に浴衣を襲《かさ》ねた寝着《ねまき》の扮装《なり》で、ごつごつして、寒さは寒し、もも尻になって、肩を怒らし、腕組をして、真四角《まっしかく》。
 で、二|間《けん》の――これには掛《かけ》ものが掛けてなかった――床の間を見詰めている。そこに件《くだん》の大革鞄があるのである。
 白ぼけた上へ、ドス黒くて、その身上ありたけだという、だふりと膨《ふく》だみを揺《ゆす》った形が、元来、仔細《しさい》の無い事はなかった。
 今朝、上野を出て、田端、赤羽――蕨《わらび》を過ぎる頃から、向う側に居を占めた、その男の革鞄が、私の目にフト気になりはじめた。
 私は妙な事を思出したのである。
 やがて、十八九年も経《た》ったろう。小児《こども》がちと毛を伸ばした中僧の頃である。……秋の招魂祭の、それも真昼間《まっぴるま》。両側に小屋を並べた見世《みせ》ものの中に、一ヶ所目覚しい看板を見た。
 血だらけ、白粉《おしろい》だらけ、手足、顔だらけ。刺戟の強い色を競った、夥多《あまた》の看板の中にも、そのくらい目を引いたのは無かったと思う。
 続き、上下《うえした》におよそ三四十枚、極彩色の絵看板、雲には銀砂子、襖《ふすま》に黄金箔《きんぱく》、引手に朱の総《ふさ》を提げるまで手を籠《こ》めた……芝居がかりの五十三次。
 岡崎の化猫が、白髪《しらが》の牙《きば》に血を滴らして、破簾《やれみす》よりも顔の青い、女を宙に啣《くわ》えた絵の、無慙《むざん》さが眼《まなこ》を射る。

       二

「さあさあ看板に無い処は木曾もあるよ、木曾街道もあるよ。」
 と嗾《そそ》る。……
 が、その外には何も言わぬ。並んだ小屋は軒別に、声を振立て、手足を揉上《もみあ》げ、躍りかかって、大砲の音で色花火を撒散《まきち》らすがごとき鳴物まじりに人を呼ぶのに。
 この看板の前にのみ、洋服が一人、羽織袴《はおりはかま》が一人、真中《まんなか》に、白襟、空色|紋着《もんつき》の、廂髪《ひさしがみ》で痩《や》せこけた女が一人|交《まじ》っ
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