射たように、旅客は苦しげに眉を顰《ひそ》めながら、
「鍵はありません。」
「ございませんと?……」
「鍵は棄てました。」
とぶるぶると胴震いをすると、翼を開いたように肩で掻縮《かいちぢ》めた腕組を衝《つ》と解いて、一度|投出《ほうりだ》すごとくばたりと落した。その手で、挫《ひし》ぐばかり確《しか》と膝頭《ひざがしら》を掴《つか》んで、呼吸《いき》が切れそうな咳《せき》を続けざまにしたが、決然としてすっくと立った。
「ちょっと御挨拶を申上げます、……同室の御婦人、紳士の方々も、失礼ながらお聞取《ききとり》を願いとうございます。私《わたくし》は、ここに隣席においでになる、窈窕《ようちょう》たる淑女。」
彼は窈窕たる淑女と云った。
「この令嬢の袖を、袂《たもと》をでございます。口へ挟みました旅行革鞄の持主であります。挟んだのは、諸君。」
と※[#「目+句」、第4水準2−81−91]《みまわ》す目が空ざまに天井に上ずって、
「……申兼ねましたが私《わたくし》です。もっともはじめから、もくろんで致したのではありません。袂が革鞄の中に入っていたのは偶然であったのです。
退屈まぎれに見ておりました旅行案内を、もとへ突込《つっこ》んで、革鞄の口をかしりと啣《くわ》えさせました時、フト柔かな、滑かな、ふっくりと美しいものを、きしりと縊《くび》って、引緊《ひきし》めたと思う手応《てごたえ》がありました。
真白《まっしろ》な薄《すすき》の穂か、窓へ散込んだ錦葉《もみじ》の一葉《ひとは》、散際《ちりぎわ》のまだ血も呼吸《いき》も通うのを、引挟《ひっぱさ》んだのかと思ったのは事実であります。
それが紫に緋《ひ》を襲《かさ》ねた、かくのごとく盛粧《せいしょう》された片袖の端、……すなわち人間界における天人の羽衣の羽の一枚であったのです。
諸君、私《わたくし》は謹んで、これなる令嬢の淑徳と貞操を保証いたします。……令嬢は未《いま》だかつて一度も私《わたくし》ごときものに、ただ姿さへ御見せなすった、いや、むしろ見られた事さえお有んなさらない。
東京でも、上野でも、途中でも、日本国において、私《わたくし》がこの令嬢を見ましたのは、今しがた革鞄の口に袖の挟まったのをはじめて心着きましたその瞬間におけるのみなのです。
お見受け申すと、これから結婚の式にお臨みになるようなんです。
いや
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