まま》しいなかと見たが、どうも母親に相違あるまい。
 白襟に消えもしそうに、深くさし入れた頤《おとがい》で幽《かすか》に頷《うなず》いたのが見えて、手を膝にしたまま、肩が撓《しな》って、緞子《どんす》の帯を胸高にすらりと立ったが、思うに違《たが》わず、品の可《い》い、ちと寂しいが美しい、瞼《まぶた》に颯《さっ》と色を染めた、薄《すすき》の綿に撫子《なでしこ》が咲く。
 ト挨拶をしそうにして、赤ら顔に引添って、前へ出ると、ぐい、と袖を取って引戻されて、ハッと胸で気を揉《も》んだ褄《つま》の崩れに、捌《さば》いた紅《くれない》。紅糸《べにいと》で白い爪先《つまさき》を、きしと劃《しき》ったように、そこに駒下駄が留まったのである。
 南無三宝《なむさんぽう》! 私は恥を言おう。露に濡羽《ぬれば》の烏が、月の桂《かつら》を啣《くわ》えたような、鼈甲《べっこう》の照栄《てりは》える、目前《めのさき》の島田の黒髪に、魂を奪われて、あの、その、旅客を忘れた。旅行案内を忘れた。いや、大切な件《くだん》の大革鞄を忘れていた。
 何と、その革鞄の口に、紋着《もんつき》の女の袖が挟《はさま》っていたではないか。
 仕出来《しでか》した、さればこそはじめた。
 私はあえて、この老怪の歯が引啣《ひきくわ》えていたと言おう。……
 いま立ちしなの身じろぎに、少し引かれて、ずるずると出たが、女が留まるとともに、床へは落ちもせず、がしゃりと据った。
 重量《おもみ》が、自然と伝《つたわ》ったろう、靡《なび》いた袖を、振返って、横顔で見ながら、女は力なげに、すっともとの座に返って、
「御免なさいまし。」
 と呼吸《いき》の下で云うと、襟の白さが、颯《さっ》と紫を蔽《おお》うように、はなじろんで顔をうつむけた。
 赤ら顔は見免《みのが》さない。
「お前、どうしたのかねえ。」
 かの男はと見ると、ちょうどその順が来たのかどうか、くしゃくしゃと両手で頭髪《かみ》を掻《かき》しゃなぐる、中折帽も床に落ちた、夢中で引※[#「てへん+劣」、第3水準1−84−77]《ひんむし》る。
「革鞄に挟った。」
「どうしてな。」
 と二三人立掛ける。
 窓へ、や、えんこらさ、と攀上《よじのぼ》った若いものがある。
 駅夫の長い腕が引払《ひッぱら》った。
 笛は、胡桃《くるみ》を割る駒鳥の声のごとく、山野に響く。
 汽車は猶
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