なんでもちっとはお痛みあそばしましょうから、爪《つめ》をお取りあそばすとは違いますよ」
夫人はここにおいてぱっちりと眼を※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《ひら》けり。気もたしかになりけん、声は凛《りん》として、
「刀《とう》を取る先生は、高峰様だろうね!」
「はい、外科科長です。いくら高峰様でも痛くなくお切り申すことはできません」
「いいよ、痛かあないよ」
「夫人《ふじん》、あなたの御病気はそんな手軽いのではありません。肉を殺《そ》いで、骨を削るのです。ちっとの間御辛抱なさい」
臨検の医博士はいまはじめてかく謂えり。これとうてい関雲長にあらざるよりは、堪えうべきことにあらず。しかるに夫人は驚く色なし。
「そのことは存じております。でもちっともかまいません」
「あんまり大病なんで、どうかしおったと思われる」
と伯爵は愁然たり。侯爵は、かたわらより、
「ともかく、今日はまあ見合わすとしたらどうじゃの。あとでゆっくりと謂い聞かすがよかろう」
伯爵は一議もなく、衆みなこれに同ずるを見て、かの医博士は遮りぬ。
「一時《ひととき》後《おく》れては、取り返しがなりません。いったい、あなたがたは病を軽蔑《けいべつ》しておらるるから埒《らち》あかん。感情をとやかくいうのは姑息《こそく》です。看護婦ちょっとお押え申せ」
いと厳《おごそ》かなる命のもとに五名の看護婦はバラバラと夫人を囲みて、その手と足とを押えんとせり。渠らは服従をもって責任とす。単に、医師の命をだに奉ずればよし、あえて他の感情を顧みることを要せざるなり。
「綾! 来ておくれ。あれ!」
と夫人は絶え入る呼吸《いき》にて、腰元を呼びたまえば、慌《あわ》てて看護婦を遮りて、
「まあ、ちょっと待ってください。夫人《おくさま》、どうぞ、御堪忍あそばして」と優しき腰元はおろおろ声。
夫人の面は蒼然《そうぜん》として、
「どうしても肯《き》きませんか。それじゃ全快《なお》っても死んでしまいます。いいからこのままで手術をなさいと申すのに」
と真白く細き手を動かし、かろうじて衣紋《えもん》を少し寛《くつろ》げつつ、玉のごとき胸部を顕《あら》わし、
「さ、殺されても痛かあない。ちっとも動きやしないから、だいじょうぶだよ。切ってもいい」
決然として言い放てる、辞色ともに動かすべからず。さすが高位の御身とて、威厳あたりを払うにぞ、満堂|斉《ひと》しく声を呑《の》み、高き咳《しわぶき》をも漏らさずして、寂然《せきぜん》たりしその瞬間、先刻《さき》よりちとの身動きだもせで、死灰のごとく、見えたる高峰、軽く見を起こして椅子《いす》を離れ、
「看護婦、メスを」
「ええ」と看護婦の一人は、目を※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みは》りて猶予《ためら》えり。一同斉しく愕然《がくぜん》として、医学士の面を瞻《みまも》るとき、他の一人の看護婦は少しく震えながら、消毒したるメスを取りてこれを高峰に渡したり。
医学士は取るとそのまま、靴音《くつおと》軽く歩を移してつと手術台に近接せり。
看護婦はおどおどしながら、
「先生、このままでいいんですか」
「ああ、いいだろう」
「じゃあ、お押え申しましょう」
医学士はちょっと手を挙《あ》げて、軽く押し留《とど》め、
「なに、それにも及ぶまい」
謂う時|疾《はや》くその手はすでに病者の胸を掻《か》き開《あ》けたり。夫人は両手を肩に組みて身動きだもせず。
かかりしとき医学士は、誓うがごとく、深重厳粛たる音調もて、
「夫人、責任を負って手術します」
ときに高峰の風采《ふうさい》は一種神聖にして犯すべからざる異様のものにてありしなり。
「どうぞ」と一言|答《いら》えたる、夫人が蒼白なる両の頬《ほお》に刷《は》けるがごとき紅を潮しつ。じっと高峰を見詰めたるまま、胸に臨めるナイフにも眼《まなこ》を塞《ふさ》がんとはなさざりき。
と見れば雪の寒紅梅、血汐《ちしお》は胸よりつと流れて、さと白衣《びゃくえ》を染むるとともに、夫人の顔はもとのごとく、いと蒼白《あおじろ》くなりけるが、はたせるかな自若として、足の指をも動かさざりき。
ことのここに及べるまで、医学士の挙動|脱兎《だっと》のごとく神速にしていささか間《かん》なく、伯爵夫人の胸を割《さ》くや、一同はもとよりかの医博士に到《いた》るまで、言《ことば》を挟《さしはさ》むべき寸隙《すんげき》とてもなかりしなるが、ここにおいてか、わななくあり、面を蔽《おお》うあり、背向《そがい》になるあり、あるいは首《こうべ》を低《た》るるあり、予のごとき、われを忘れて、ほとんど心臓まで寒くなりぬ。
三|秒《セコンド》にして渠が手術は、ハヤその佳境に進みつつ、メス骨に達すと覚しきとき、
「あ」と深刻なる声を絞りて
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