、二十日以来寝返りさえもえせずと聞きたる、夫人は俄然《がぜん》器械のごとく、その半身を跳ね起きつつ、刀《とう》取れる高峰が右手《めて》の腕《かいな》に両手をしかと取り縋《すが》りぬ。
「痛みますか」
「いいえ、あなただから、あなただから」
かく言い懸《か》けて伯爵夫人は、がっくりと仰向《あおむ》きつつ、凄冷《せいれい》極《きわ》まりなき最後の眼《まなこ》に、国手《こくしゅ》をじっと瞻《みまも》りて、
「でも、あなたは、あなたは、私《わたくし》を知りますまい!」
謂うとき晩《おそ》し、高峰が手にせるメスに片手を添えて、乳の下深く掻き切りぬ。医学士は真蒼《まっさお》になりて戦《おのの》きつつ、
「忘れません」
その声、その呼吸《いき》、その姿、その声、その呼吸、その姿。伯爵夫人はうれしげに、いとあどけなき微笑《えみ》を含みて高峰の手より手をはなし、ばったり、枕に伏すとぞ見えし、脣《くちびる》の色変わりたり。
そのときの二人が状《さま》、あたかも二人の身辺には、天なく、地なく、社会なく、全く人なきがごとくなりし。
下
数うれば、はや九年前なり。高峰がそのころはまだ医科大学に学生なりしみぎりなりき。一日《あるひ》予は渠《かれ》とともに、小石川なる植物園に散策しつ。五月五日|躑躅《つつじ》の花盛んなりし。渠とともに手を携え、芳草の間を出つ、入りつ、園内の公園なる池を繞《めぐ》りて、咲き揃《そろ》いたる藤《ふじ》を見つ。
歩を転じてかしこなる躑躅の丘に上らんとて、池に添いつつ歩めるとき、かなたより来たりたる、一群れの観客あり。
一個《ひとり》洋服の扮装《いでたち》にて煙突帽を戴《いただ》きたる蓄髯《ちくぜん》の漢《おとこ》前衛して、中に三人の婦人を囲みて、後《あと》よりもまた同一《おなじ》様なる漢来れり。渠らは貴族の御者なりし。中なる三人の婦人等《おんなたち》は、一様に深張りの涼傘《ひがさ》を指し翳《かざ》して、裾捌《すそさば》きの音いとさやかに、するすると練り来たれる、と行き違いざま高峰は、思わず後を見返りたり。
「見たか」
高峰は頷《うなず》きぬ。「むむ」
かくて丘に上りて躑躅を見たり。躑躅は美なりしなり。されどただ赤かりしのみ。
かたわらのベンチに腰懸《こしか》けたる、商人《あきゅうど》体の壮者《わかもの》あり。
「吉さん、今日はいい
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