いに、片手で捧げた肱《ひじ》に靡《なび》いて、衣紋《えもん》も褄《つま》も整然《きちん》とした。
「絵ですか、……誰の絵なんです。」
「あら、御存じない?……あなた、鴾先生のじゃありませんか。」
「ええ、鴾君が、いつね、その絵を。」
(いままだ、銀座裏で飲んでいよう、すました顔して、すくすくと銚子《ちょうし》の数を並べて。)
「つい近頃だと言いますよ。それも、わけがありましてね、私が今夜、――その酒場へ、槍、鉄棒で押掛けたといいました。やっぱりその事でおかきなすったんだけれどもね。まあ、お目にかけますわ……お待なさい。ここは、廊下で、途中だし、下へ出た処で、往来と……ああ、ちょっとこの部屋へ入りましょうか。」
「名札はかかっていないけれど、いいかな。」
「あき店《だな》さ、お前さん、田畝《たんぼ》の葦簾張《よしずばり》だ。」
と云った。
「ぬしがあっても、夜の旅じゃ、休むものに極《きま》っていますよ。」
「しかし、なかに、どんなものか置いてでもあると、それだとね。」
「御本尊のいらっしゃる、堂、祠《ほこら》へだって入りましょう。……人間同士、構やしません。いえ、そこどころじゃあない、私は野宿をしましてね、変だとも、おかしいとも、何とも言いようのない、ほほほ、男の何を飾った処へ、のたれ込んだ事がありますわ。野中のお堂さ、お前さん。……それから見りゃ、――おや開かない、鍵が掛《かか》っていますかね、この扉は。」
「無論だろうね。」
「圧《お》してみて下さい。開きません? ああ、そうね、あなたがなすって[#「なすって」は底本では「なすつて」]は御身分がら……お待ちなさいよ、おつな呪禁《まじない》がありますから。」
懐紙《ふところがみ》を器用に裂くと、端を捻《ひね》り、頭を抓《つま》んで、
「てるてる坊さん、ほほほ。」
すぼけた小鮹《こだこ》が、扉の鍵穴に、指で踊った。
「いけないね、坊さん一人じゃあ足りないかね。そら、もう一人、出ました。また一人、もう一人。これじゃ長屋の井戸替だ。あかないかね。そんな筈はないんだけれど、――雨をお天気にする力があるなら、掛けた鍵なぞわけなしじゃあないか。しっかりおしよ。」
ぽんと、丸めた紙の頭を順にたたくと、手だか足だか、ふらふらふらと刎《は》ねる拍子に、何だか、けばだった処が口に見えて、尖《とが》って、目皺《めじわ》で笑って、揃って騒ぐ。
「いえね、お前さん出来るわけがありますの。……その野宿で倒れた時さ――当にして行った仙台の人が、青森へ住替えたというので、取りつく島からまた流れて、なけなしの汽車のお代。盛岡とかいう処で、ふっと気がつくと、紙入がない、切符がなし。まさか、風体を視《み》たって箱仕事もしますまい。間抜けで落したと気がつくと、鉄道へ申し訳がありません。どうせ、恐入るものをさ、あとで気がつけば青森へ着いてからでも御沙汰《おさた》は同じだものを、ちっとでも里数の少い方がお詫《わび》がしいいだろうでもって、馬鹿さが堪《たま》らない。お前さん、あたふた、次の駅で下りましたがね。あわてついでに改札口だか、何だか、ふらふらと出ますとね、停車場も汽車も居なくなって、町でしょう、もう日が、とっぷり暮れている。夜道の落人、ありがたい、網の目を抜けたと思いましたが、さあ、それでも追手が掛《かか》りそうで、恐い事――つかまったって、それだけだものを、大した御法でも背いたようでね。ええ、だもんだから、腹がすけば、ぼろ撥《ばち》一|挺《ちょう》なくっても口三味線で門附けをしかねない図々しい度胸なのが、すたすたもので、町も、村も、ただ人気のない処と遁《に》げましたわ、知らぬ他国の奥州くんだり、東西も弁《わきま》えない、心細い、畷道《なわてみち》。赤い月は、野末に一つ、あるけれど、もと末も分らない、雲を落ちた水のような畝《うね》った道を、とぼついて、堪らなくなって――辻堂へ、路傍《みちばた》の芒《すすき》を分けても、手に露もかかりません。いきれの強い残暑のみぎり。
まあ、のめり込んだ御堂の中に、月にぼやっと菅笠ほどの影が出来て、大きな梟《ふくろう》――また、あっちの森にも、こっちの林にも鳴いていました――その梟が、顱巻《はちまき》をしたような、それですよ。……祭った怪しい、御本体は。――
この私だから度胸を据えて、褌《ふんどし》が紅《あか》でないばかり、おかめが背負《しょ》ったように、のめっていますと、(姉さん一緒においで。――)そういって、堂のわきの茂りの中から、大方、在方《ざいかた》の枝道を伝って出たと見えます。うす青い縞《しま》の浴衣だか単衣《ひとえ》だか、へこ帯のちょい結びで、頬被《ほおかぶり》をしたのが、菅笠をね、被《かぶ》らずに、お前さん、背中へ掛けて、小さな風呂敷包みがその下にあるらしい
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