でありながら、厚ぼったくなく、もの柔《やわらか》にすらりとしたのが、小丼のもずくの傍《わき》で、海を飛出し、銀に光る、鰹《かつお》の皮づくりで、静《しずか》に猪口《ちょく》を傾けながら、
「おや、もう帰る。」信也氏が早急に席を出た時、つまの蓼《たで》を真青《まっさお》に噛《か》んで立ったのがその画伯であった。

「ああ、やっと、思出した……おつまさん。」
「市場の、さしみの……」
 と莞爾《にっこり》する。
「おさらいは構わないが、さ、さしあたって、水の算段はあるまいか、一口でもいいんだが。」
「おひや。暑そうね、お前さん、真赤《まっか》になって。」
 と、扇子《おうぎ》を抜いて、風をくれつつ、
「私も暑い。赤いでしょう。」
「しんは青くなっているんだよ……息が切れて倒れそうでね。」
「おひや、ありますよ。」
「有りますか。」
「もう、二階ばかり上の高い処に、海老屋《えびや》の屋根の天水|桶《おけ》の雪の遠見ってのがありました。」
「聞いても飛上りたいが、お妻さん、動悸《どうき》が激しくって、動くと嘔きそうだ。下へもおりられないんだよ。恩に被《き》るから、何とか一杯。」
「おっしゃるな。すぐに算段をしますから。まったく、いやに蒸すことね。その癖、乾き切ってさ。」
 とついと立って、
「五月雨の……と心持でも濡れましょう。池の菰《まこも》に水まして、いずれが、あやめ杜若《かきつばた》、さだかにそれと、よし原に、ほど遠からぬ水神へ……」
 扇子《おうぎ》をつかって、トントンと向うの段を、天井の巣へ、鳥のようにひらりと行く。
 一あめ、さっと聞くおもい、なりも、ふりも、うっちゃった容子の中《うち》に、争われぬ手練《てだれ》が見えて、こっちは、吻《ほっ》と息を吐《つ》いた。……
 ――踊が上手《うま》い、声もよし、三味線《さみせん》はおもて芸、下方《したかた》も、笛まで出来る。しかるに芸人の自覚といった事が少しもない。顔だちも目についたが、色っぽく見えない処へ、媚《なまめか》しさなどは気《け》もなかった。その頃、銀座さんと称《とな》うる化粧問屋の大尽《だいじん》があって、新《あらた》に、「仙牡丹《せんぼたん》」という白粉《おしろい》を製し、これが大当りに当った、祝と披露を、枕橋《まくらばし》の八百松《やおまつ》で催した事がある。
 裾《すそ》を曳《ひ》いて帳場に起居《たちい
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