みで、本が読める。五経、文選《もんぜん》すらすらで、書がまた好《よ》い。一度|冥途《めいど》を※[#「彳+淌のつくり」、第3水準1−84−33]※[#「彳+羊」、第3水準1−84−32]《さまよ》ってからは、仏教に親《したし》んで参禅もしたと聞く。――小母さんは寺子屋時代から、小僧の父親とは手習傍輩《てならいほうばい》で、そう毎々でもないが、時々は往来《ゆきき》をする。何ぞの用で、小僧も使いに遣《や》られて、煎餅《せんべい》も貰《もら》えば、小母さんの易をト《み》る七星を刺繍《ししゅう》した黒い幕を張った部屋も知っている、その往戻《ゆきもど》りから、フトこのかくれた小路をも覚えたのであった。
この魔のような小母さんが、出口に控えているから、怪《あやし》い可恐《おそろし》いものが顕《あら》われようとも、それが、小母さんのお夥間《なかま》の気がするために、何となく心易《こころやす》くって、いつの間にか、小児《こども》の癖に、場所柄を、さして憚《はばか》らないでいたのである。が、学校をなまけて、不思議な木戸に、「かしほん」の庭を覗くのを、父親の傍輩に見つかったのは、天狗《てんぐ》に逢《あ》ったほど可恐しい。
「内へお寄り。……さあ、一緒に。」
優しく背《せな》を押したのだけれども、小僧には襟首を抓《つま》んで引立てられる気がして、手足をすくめて、宙を歩行《ある》いた。
「肥《ふと》っていても、湯ざめがするよ。――もう春だがなあ、夜はまだ寒い。」
と、納戸で被布《ひふ》を着て、朱の長煙管《ながぎせる》を片手に、
「新坊、――あんな処に、一人で何をしていた?……小母さんが易を立てて見てあげよう。二階へおいで。」
月、星を左右の幕に、祭壇を背にして、詩経、史記、二十一史、十三経|注疏《ちゅうそ》なんど本箱がずらりと並んだ、手習机を前に、ずしりと一杯に、座蒲団《ざぶとん》に坐《すわ》って、蔽《おい》のかかった火桶を引寄せ、顔を見て、ふとった頬でニタニタと笑いながら、長閑《のどか》に煙草《たばこ》を吸ったあとで、円い肘《ひじ》を白くついて、あの天眼鏡というのを取って、ぴたりと額に当てられた時は、小僧は悚然《ぞっ》として震上《ふるいあが》った。
大川の瀬がさっと聞こえて、片側町の、岸の松並木に風が渡った。
「……かし本。――ろくでもない事を覚えて、此奴《こいつ》めが。こんな
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