爪をもって愛するんだ。……鎧は脱ぐまい、と思う。(従容《しょうよう》として椅子に戻る。)
美女 (起直り、会釈す)……父へ、海の幸をお授け下さいました、津波のお強さ、船を覆して、ここへ、遠い海の中をお連れなすった、お力。道すがらはまたお使者《つかい》で、金剛石のこの襟飾《えりかざり》、宝玉のこの指環、(嬉しげに見ゆ)貴方《あなた》の御威徳はよく分りましたのでございます。
公子 津波|位《しき》、家来どもが些細《ささい》な事を。さあ、そこへお掛け。
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女房、介抱して、美女、椅子に直る。
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頸飾《くびかざり》なんぞ、珠なんぞ。貴女の腰掛けている、それは珊瑚だ。
[#ここで字下げ終わり]
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美女 まあ、父に下さいました枝よりは、幾倍とも。
公子 あれは草です。較《くら》ぶればここのは大樹だ。椅子の丈は陸《くが》の山よりも高い。そうしている貴女の姿は、夕日影の峰に、雪の消残ったようであろう。少しく離れた私の兜《かぶと》の竜頭《たつがしら》は、城の天守の棟に飾った黄金の鯱《しやち》ほどに見えようと思う。
美女 あの、人の目に、それが、貴方?
公子 譬喩《たとえ》です、人間の目には何にも見えん。
美女 ああ、見えはいたしますまい。お恥かしい、人間の小さな心には、ここに、見ますれば私が裳《すそ》を曳《ひ》きます床も、琅※[#「王+干」、第3水準1−87−83]《ろうかん》の一枚石。こうした御殿のある事は、夢にも知らないのでございますもの、情《なさけ》のう存じます。
公子 いや、そんなに謙遜をするには当らん。陸《くが》には名山、佳水《かすい》がある。峻岳《しゅんがく》、大河がある。
美女 でも、こんな御殿はないのです。
公子 あるのを知らないのです。海底の琅※[#「王+干」、第3水準1−87−83]の宮殿に、宝蔵の珠玉金銀が、虹《にじ》に透いて見えるのに、更科《さらしな》の秋の月、錦《にしき》を染めた木曾の山々は劣りはしない。……峰には、その錦葉《もみじ》を織る竜田姫《たつたひめ》がおいでなんだ。人間は知らんのか、知っても知らないふりをするのだろう。知らない振《ふり》をして見ないんだろう。――陸《くが》は尊い、景色は得難い。今も、道中双六《どうちゅうすごろく》をして遊ぶのに、五十三次の一枚絵さえ手許《てもと》にはなかったのだ。絵も貴《とうと》い。
美女 あんな事をおっしゃって、絵には活《い》きたものは住んでおりませんではありませんか。
公子 いや、住居《すまい》をしている。色彩は皆活きて動く。けれども、人は知らないのだ。人は見ないのだ。見ても見ない振《ふり》をしているんだから、決して人間の凡《すべ》てを貴いとは言わない、美《うつくし》いとは言わない。ただ陸《くが》は貴い。けれども、我が海は、この水は、一|畝《うね》りの波を起して、その陸を浸す事が出来るんだ。ただ貴く、美《うつくし》いものは亡《ほろ》びない。……中にも貴女は美しい。だから、陸の一浦《ひとうら》を亡《ほろ》ぼして、ここへ迎え取ったのです。亡ぼす力のあるものが、亡びないものを迎え入れて、且つ愛し且つ守護するのです。貴女は、喜《よろこ》ばねば不可《いけな》い、嬉しがらなければならない、悲しんではなりません。
女房 貴女、おっしゃる通りでございます。途中でも私《わたくし》が、お喜ばしい、おめでたい儀と申しました。決してお歎《なげ》きなさいます事はありません。
美女 いいえ、歎きはいたしません。悲しみはいたしません。ただ歎きますもの、悲しみますものに、私の、この容子《ようす》を見せてやりたいと思うのです。
女房 人間の目には見えません。
美女 故郷《ふるさと》の人たちには。
公子 見えるものか。
美女 (やや意気ぐむ)あの、私の親には。
公子 貴女は見えると思うのか。
美女 こうして、活《い》きておりますもの。
公子 (屹《きっ》としたる音調)無論、活きている。しかし、船から沈む時、ここへ来るにどういう決心をしたのですか。
美女 それは死ぬ事と思いました。故郷《ふるさと》の人も皆そう思って、分けて親は歎き悲しみました。
公子 貴女の親は悲しむ事は少しもなかろう。はじめからそのつもりで、約束の財を得た。しかも満足だと云った。その代りに娘を波に沈めるのに、少しも歎くことはないではないか。
美女 けれども、父娘《おやこ》の情愛でございます。
公子 勝手な情愛だね。人間の、そんな情愛は私には分らん。(頭《かぶり》を掉《ふ》る)が、まあ、情愛としておく、それで。
美女 父は涙にくれました。小船が波に放たれます時、渚《なぎさ》の砂に、父の倒伏《たおれふ》しました処は、あの、ちょうど夕月に紫の枝珊瑚を抱きました処な
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