く夕暮の静かな水の音が身に染みる。
岩端《いわばな》や、ここにも一人、と、納涼台《すずみだい》に掛けたように、其処《そこ》に居て、さして来る汐を視《なが》めて少時《しばらく》経った。
下
水の面《おも》とすれすれに、むらむらと動くものあり。何《なに》か影のように浮いて行《ゆ》く。……はじめは蘆の葉に縋《すが》った蟹《かに》が映って、流るる水に漾《ただよ》うのであろう、と見たが、あらず、然《さ》も心あるもののごとく、橋に沿うて行《ゆ》きつ戻りつする。さしたての潮《しお》が澄んでいるから差《さ》し覗《のぞ》くとよく分かった――幼児《おさなご》の拳《こぶし》ほどで、ふわふわと泡《あわ》を束《つか》ねた形。取り留めのなさは、ちぎれ雲が大空《おおぞら》から影を落としたか、と視められ、ぬぺりとして、ふうわり軽い。全体が薄樺《うすかば》で、黄色い斑《ぶち》がむらむらして、流れのままに出たり、消えたり、結んだり、解けたり、どんよりと濁肉《にごりじし》の、半ば、水なりに透き通るのは、是《これ》なん、別のものではない、虎斑《とらまだら》の海月《くらげ》である。
生《しょう》ある一物《いちもつ》、不思議はないが、いや、快く戯《たわむ》れる。自在に動く。……が、底ともなく、中《なか》ほどともなく、上面《うわつら》ともなく、一条《ひとすじ》、流れの薄衣《うすぎぬ》を被《かつ》いで、ふらふら、ふらふら、……斜《はす》に伸びて流るるかと思えば、むっくり真直に頭《ず》を立てる、と見ると横になって、すいと通る。
時に、他《ほか》に浮んだものはなんにもない。
この池を独り占《じ》め、得意の体《てい》で、目も耳もない所為《せい》か、熟《じっ》と視める人の顔の映った上を、ふい、と勝手に泳いで通る、通る、と引き返してまた横切る。
それがまた思うばかりではなかった。実際、其処に踞《しゃが》んだ、胸の幅《はば》、唯《ただ》、一尺ばかりの間《あいだ》を、故《わざ》とらしく泳ぎ廻《まわ》って、これ見よがしの、ぬっぺらぼう!
憎《にっく》い気がする。
と膝《ひざ》を割って衝《つ》と手を突ッ込む、と水がさらさらと腕《かいな》に搦《から》んで、一来法師《いちらいほうし》、さしつらりで、ついと退《ひ》いた、影も溜《たま》らず。腕を伸ばしても届かぬ向こうで、くるりと廻る風《ふう》して、澄ましてまた泳ぐ。
「此奴《こいつ》」
と思わず呟《つぶや》いて苦笑した。
「待てよ」
獲物《えもの》を、と立って橋の詰《つめ》へ寄って行《ゆ》く、とふわふわと着いて来て、板と蘆《あし》の根の行《ゆ》き逢った隅《すみ》へ、足近く、ついと来たが、蟹《かに》の穴か、蘆の根か、ぶくぶく白泡《しろあわ》が立ったのを、ひょい、と気なしに被《かぶ》ったらしい。
ふッ、と言いそうなその容体《ようだい》。泡を払うがごとく、むくりと浮いて出た。
その内《うち》、一本《ひともと》根から断《き》って、逆手《さかて》に取ったが、くなくなした奴《やつ》、胴中《どうなか》を巻いて水分かれをさして遣《や》れ。
で、密《そっ》と離れた処《ところ》から突ッ込んで、横寄せに、そろりと寄せて、這奴《しゃつ》が夢中で泳ぐ処を、すいと掻《か》きあげると、つるりと懸かった。
蓴菜《じゅんさい》が搦《から》んだようにみえたが、上へ引く雫《しずく》とともに、つるつると辷《すべ》って、もう何《なん》にもなかった。
「鮹《たこ》の燐火《ひとだま》、退散《たいさん》だ」
それみろ、と何か早《や》や、勝ち誇った気構《きがま》えして、蘆の穂を頬摺《ほほず》りに、と弓杖《ゆんづえ》をついた処は可《よ》かったが、同時に目の着く潮《うしお》のさし口。
川から、さらさらと押して来る、蘆の根の、約二|間《けん》ばかりの切れ目の真中《まんなか》。橋と正面に向き合う処に、くるくると渦《うず》を巻いて、坊主《ぼうず》め、色も濃く赫《くわッ》と赤らんで見えるまで、躍り上がる勢いで、むくむく浮き上がった。
ああ、人間に恐れをなして、其処《そこ》から、川筋を乗って海へ落ち行《ゆ》くよ、と思う、と違う。
しばらく同じ処に影を練って、浮《う》いつ沈みつしていたが、やがて、すいすい、横泳ぎで、しかし用心深そうな態度で、蘆の根づたいに大廻りに、ひらひらと引き返す。
穂は白く、葉の中に暗くなって、黄昏《たそがれ》の色は、うらがれかかった草の葉末に敷き詰めた。
海月《くらげ》に黒い影が添って、水を捌《さば》く輪が大きくなる。
そして動くに連《つ》れて、潮《しお》はしだいに増すようである。水《み》の面《も》が、水の面が、脈《みゃく》を打って、ずんずん拡《ひろ》がる。嵩《かさ》増《ま》す潮は、さし口《ぐち》を挟《はさ》んで、川べりの蘆《あし
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