葛飾砂子
泉鏡花
−−
【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)橘之助《きつのすけ》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)先年|尾上《おのえ》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「目+句」、第4水準2−81−91]
−−
[#ここから3字下げ]
縁日 柳行李 橋ぞろえ 題目船 衣の雫 浅緑
記念ながら
[#ここで字下げ終わり]
[#改ページ]
縁日
一
先年|尾上《おのえ》家の養子で橘之助《きつのすけ》といった名題|俳優《やくしゃ》が、年紀《とし》二十有五に満たず、肺を煩い、余り胸が痛いから白菊の露が飲みたいという意味の辞世の句を残して儚《はかの》うなり、贔屓《ひいき》の人々は謂《い》うまでもなく、見巧者《みごうしゃ》をはじめ、芸人の仲間にも、あわれ梨園の眺め唯一の、白百合一つ萎《しぼ》んだりと、声を上げて惜しみ悼まれたほどのことである。
深川富岡門前に待乳《まっち》屋と謂って三味線《さみせん》屋があり、その一人娘で菊枝という十六になるのが、秋も末方の日が暮れてから、つい近所の不動の縁日に詣《まい》るといって出たのが、十時半過ぎ、かれこれ十一時に近く、戸外《おもて》の人通《ひとどおり》もまばらになって、まだ帰って来なかった。
別に案ずるまでもない、同《おなじ》町の軒並び二町ばかり洲崎《すさき》の方へ寄った角に、浅草紙、束藁《たわし》、懐炉灰《かいろばい》、蚊遣香《かやりこう》などの荒物、烟草《たばこ》も封印なしの一銭五厘二銭玉、ぱいれっと、ひーろーぐらいな処を商う店がある、真中《まんなか》が抜裏の路地になって合角《あいかど》に格子戸|造《づくり》の仕舞家《しもたや》が一軒。
江崎とみ、と女名前、何でも持って来いという意気|造《づくり》だけれども、この門札《かどふだ》は、さる類《たぐい》の者の看板ではない、とみというのは方違いの北の廓《くるわ》、京町とやらのさる楼《うち》に、博多《はかた》の男帯を後《うしろ》から廻して、前で挟んで、ちょこなんと坐って抜衣紋《ぬきえもん》で、客の懐中《ふところ》を上目で見るいわゆる新造《しんぞ》なるもので。
三十の時から二階三階を押廻して、五十七の今年二十六年の間、遊女八人の身抜《みぬけ》をさしたと大意張《おおいばり》の腕だから、家作などはわがものにして、三月ばかり前までは、出稼《でかせぎ》の留守を勤め上《あが》りの囲物《かこいもの》、これは洲崎に居た年増《としま》に貸してあったが、その婦人《おんな》は、この夏、弁天町の中通《なかどおり》に一軒|引手茶屋《ひきてぢゃや》の売物があって、買ってもらい、商売をはじめたので空家になり、また貸札でも出そうかという処へ娘のお縫。母親の富とは大違いな殊勝な心懸《こころがけ》、自分の望みで大学病院で仕上げ、今では町|住居《ずまい》の看護婦、身綺麗《みぎれい》で、容色《きりょう》も佳《よ》くって、ものが出来て、深切で、優《おとな》しいので、寸暇のない処を、近ごろかの尾上家に頼まれて、橘之助の病蓐《びょうじょく》に附添って、息を引き取るまで世話をしたが、多分の礼も手に入るる、山そだちは山とか、ちと看病|疲《づかれ》も出たので、しばらく保養をすることにして帰って来て、ちょうど留守へ入って独《ひとり》で居る。菊枝は前の囲者が居た時分から、縁あってちょいちょい遊びに行ったが、今のお縫になっても相変らず、……きっとだと、両親《ふたおや》が指図で、小僧兼内弟子の弥吉《やきち》というのを迎《むかい》に出すことにした。
「菊枝が毎度出ましてお邪魔様でございます、難有《ありがと》う存じます。それから菊枝に、病気揚句だ、夜更《よふか》しをしては宜《よ》くないからお帰りと、こう言うのだ。汝《てめえ》またかりん糖の仮色《こわいろ》を使って口上を忘れるな。」
坐睡《いねむり》をしていたのか、寝惚面《ねぼけづら》で承るとむっくと立ち、おっと合点お茶の子で飛出した。
わっしょいわっしょいと謂《い》う内に駆けつけて、
「今晩は。」というと江崎が家の格子戸をがらりと開けて、
「今晩は。」
時に返事をしなかった、上框《あがりがまち》の障子は一枚左の方へ開けてある。取附《とッつき》が三畳、次の間《ま》に灯《あかり》は点《つ》いていた、弥吉は土間の処へ突立《つった》って、委細構わず、
「へい毎度出ましてお邪魔様でございます、難有《ありがと》う存じます。ええ、菊枝さん、姉さん。」
二
「菊枝さん、」とまた呼んだが、誰も返事をするものがない。
立続けに、
「遅いからもうお帰りなさいまし、風邪を引くと不可《いけ》ません。」
弥吉は親方の吩咐《いいつけ》に註を入れて、我ながら旨《うま》く言ったと思ったが、それでもなお応じないから、土間の薄暗い中をきょろきょろと※[#「目+句」、第4水準2−81−91]《みまわ》したが、密《そっ》と、框《かまち》に手をついて、及腰《およびごし》に、高慢な顔色《かおつき》で内を透《すか》し、
「かりん糖でござい、評判のかりん糖!」と節をつけて、
「雨が降ってもかりかりッ、」
どんなものだ、これならば顕《あらわ》れよう、弥吉は菊枝とお縫とが居ない振《ふり》でかつぐのだと思うから、笑い出すか、噴き出すか、くすくす遣《や》るか、叱るかと、ニヤニヤ独《ひとり》で笑いながら、耳を澄《すま》したけれども沙汰《さた》がない、時計の音が一分ずつ柱を刻んで、潮《うしお》の退《ひ》くように鉄瓶の沸《に》え止《や》む響《ひびき》、心着けば人気勢《ひとけはい》がしないのである。
「可笑《おか》しいな、」と独言《ひとりごと》をしたが、念晴しにもう一ツ喚《わめ》いてみた。
「へい、かりん糖でござい。」
それでも寂寞《ひっそり》、気のせいか灯《あかり》も陰気らしく、立ってる土間は暗いから、嚔《くさめ》を仕損なったような変な目色《めつき》で弥吉は飛込んだ時とは打って変り、ちと悄気《しょげ》た形で格子戸を出たが、後を閉めもせず、そのままには帰らないで、溝伝いにちょうど戸外《おもて》に向った六畳の出窓の前へ来て、背後向《うしろむき》に倚《よ》りかかって、前後《あとさき》を※[#「目+句」、第4水準2−81−91]《みまわ》して、ぼんやりする。
がらがらと通ったのは三台ばかりの威勢の可《よ》い腕車《くるま》、中に合乗《あいのり》が一台。
「ええ、驚かしゃあがるな。」と年紀《とし》には肖《に》ない口を利いて、大福餅が食べたそうに懐中《ふところ》に手を入れて、貧乏ゆるぎというのを行《や》る。
処へ入乱れて三四人の跫音《あしおと》、声高にものを言い合いながら、早足で近《ちかづ》いて、江崎の前へ来るとちょっと淀《よど》み、
「どうもお嬢さん難有《ありがと》うございました。」こういったのは豆腐屋の女房《かみさん》で、
「飛んだお手数でしたね。」
「お蔭様だ。」と留《とめ》という紺屋の職人が居る、魚勘《うおかん》の親仁《おやじ》が居る、いずれも口々。
中に挟《はさま》ったのが看護婦のお縫で、
「どういたしまして、誰方《どなた》も御苦労様、御免なさいまし。」
「さようなら。」
「お休み。」
互に言葉を交《かわ》したが、連《つれ》の三人はそれなり分れた。
ちょっと彳《たたず》んで見送るがごとくにする、お縫は縞物《しまもの》の不断着に帯をお太鼓にちゃんと結んで、白足袋を穿《は》いているさえあるに、髪が夜会結《やかいむすび》。一体ちょん髷《まげ》より夏冬の帽子に目を着けるほどの、土地柄に珍しい扮装《なり》であるから、新造の娘とは知っていても、称《とな》えるにお嬢様をもってする。
お縫は出窓の処に立っている弥吉には目もくれず、踵《くびす》を返すと何か忙《せわ》しらしく入ろうとしたが、格子も障子も突抜けに開《あけ》ッ放し。思わず猶予《ためら》って振返った。
「お帰んなさい。」
「おや、待乳屋さんの、」と唐突《だしぬけ》に驚く間もあらせず、
「菊枝さんはどうしました。」
「お帰んなすったんですか。」
いささか見当が違っている。
「病気揚句だしもうお帰んなさいって、へい、迎いに来たんで。」
「どうかなさいましたか。」と深切なものいいで、門口《かどぐち》に立って尋ねるのである。
小僧は息をはずませて、
「一所に出懸けたんじゃあないの。」
「いいえ。」
柳行李
三
「へい、おかしいな、だって内にゃあ居ませんぜ。」
「なに居ないことがありますか、かつがれたんでしょう、呼んで見たのかね。」
「呼びました、喚《わめ》いたんで、かりん糖の仮声《こわいろ》まで使ったんだけれど。」
お縫は莞爾《にっこり》して、
「そんな串戯《じょうだん》をするから返事をしないんだよ。まあお入んなさい、御苦労様でした。」と落着いて格子戸を潜《くぐ》ったが、土間を透《すか》すと緋《ひ》の天鵝絨《とうてん》の緒の、小町下駄を揃えて脱いであるのに屹《きっ》と目を着け、
「御覧、履物があるじゃあないか、何を慌ててるんだね。」
弥吉は後について首を突込《つっこ》み、
「や、そいつあ気がつかなかったい。」
「今日はね河岸《かし》へ大層着いたそうで、鮪《まぐろ》の鮮《あたら》しいのがあるからお好《すき》な赤いのをと思って菊《きい》ちゃんを一人ぼっちにして、角の喜の字へ行《ゆ》くとね、帰りがけにお前、」と口早に話しながら、お縫は上框《あがりがまち》の敷居の処でちょっと屈《かが》み、件《くだん》の履物を揃えて、
「何なんですよ、蘆《あし》の湯の前まで来ると大勢立ってるんでしょう、恐しく騒いでるから聞いてみると、銀次さん許《とこ》の、あの、刺青《ほりもの》をしてるお婆さんが湯気に上《あが》ったというものですから、世話をしてね、どうもお待遠様でした。」
と、襖《ふすま》を開けてその六畳へ入ると誰も居ない、お縫は少しも怪しむ色なく、
「堪忍して下さい。だもんですから、」ずっと、長火鉢の前を悠々と斜《はす》に過ぎ、帯の間へ手を突込《つっこ》むと小さな蝦蟇口《がまぐち》を出して、ちゃらちゃらと箪笥《たんす》の上に置いた。門口《かどぐち》の方を透《すか》して、
「小僧さん、まあお上り、菊枝さん、きいちゃん。」と言って部屋の内を※[#「目+句」、第4水準2−81−91]《みまわ》すと、ぼんぼん時計、花瓶の菊、置床の上の雑誌、貸本が二三冊、それから自分の身体《からだ》が箪笥の前にあるばかり。
はじめて怪訝《おかし》な顔をした。
「おや、きいちゃん。」
「居やあしねえや。」と弥吉は腹ン這《ばい》になって、覗《のぞ》いている。
「弥吉どん。本当に居ないですか、菊ちゃん。」とお縫は箪笥に凭懸《よりかか》ったまま、少し身を引いて三寸ばかり開《あ》いている襖、寝間にしておく隣の長《なが》四畳のその襖に手を懸けたが、ここに見えなければいよいよ菊枝が居ないのに極《きま》るのだと思うから、気がさしたと覚しく、猶予《ためら》って、腰を据えて、筋の緊《しま》って来る真顔は淋しく、お縫は大事を取る塩梅《あんばい》に密《そっ》と押開けると、ただ中古《ちゅうぶる》の畳なり。
「あれ、」といいさまつかつかと入ったが、慌《あわただ》しく、小僧を呼んだ。
「おっ、」と答えて弥吉は突然《いきなり》飛込んで、
「どう、どう。」
「お待ちなさいよ、いえね、弥吉どん、お前来る途《みち》で逢違《あいちが》いはしないだろうね、履物はあるし、それにしちゃあ、」
呼び上げておきながら取留めたことを尋ねるまでもなく、お縫は半ば独言《ひとりごと》。蓋《ふた》のあいた柳行李《やなぎごうり》の前に立膝になり、ちょっと小首を傾けて、向うへ押して、ころりと、仰向けに蓋を取って、右手を差入れて底の方から擡《もた》げてみて、その手を返して、畳んだ着物を上から二ツ三ツ圧《おさ
次へ
全5ページ中1ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
泉 鏡花 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング