肩を細く、さしうつむいた黒髪に包んで、顔も上げない。まことにしとやかな佳人であった。
この片袖が、隣席にさし置かれた、他の大革鞄の口に挟まったのである。……失礼ながらその革鞄は、ここに藤助が饒舌《しゃべ》るのと、ほぼ大差のないものであった。
が、持ぬしは、意気沈んで、髯《ひげ》、髪もぶしょうにのび、面《おもて》は憔悴《しょうすい》はしていたが、素純にして、しかも謹厳なる人物であった。
汽車の進行中に、この出来事が発見された時、附添の騒ぎ方は……無理もないが、思わぬ麁※[#「勹<夕」、第3水準1−14−76]《そそう》であろう、失策した人物に対して、傍《はた》の見る目は寧《むし》ろ気の毒なほどであった。
一も二もない、したたかに詫びて、その革鞄の口を開くので、事は決着するに相違あるまい。
我も人も、しかあるべく信じた。
しかるにもかかわらず、その人物は、人々が騒いで掛けた革鞄の手の中から、すかりと握拳《にぎりこぶし》の手を抜くと斉《ひと》しく、列車の内へすっくと立って、日に焼けた面《つら》は瓦《かわら》の黄昏《たそが》るるごとく色を変えながら、決然たる態度で、同室の御婦人、紳士の方々、と室内に向って、掠声《かすれごえ》して言った。……これなる窈窕たる淑女(――私もここにその人物の言った言《ことば》を、そのまま引用したのであるが)窈窕たる淑女のはれ着の袖を侵《おか》したのは偶然の麁※[#「勹<夕」、第3水準1−14−76]である。はじめは旅行案内を掴出《つかみだ》して、それを投込んで錠を下した時に、うっかり挟んだものと思われる。が、それを心着いた時は――と云って垂々《たらたら》と額に流るる汗を拭《ぬぐ》って――ただ一瞬間に千万無量、万劫《ばんごう》の煩悩を起した。いかに思い、いかに想っても、この窈窕たる淑女は、正《まさ》しく他《ひと》に嫁せらるるのである……ばかりでない、次か、あるいはその次の停車場《ステエション》にて下車なさるるとともにたちまち令夫人とならるる、その片袖である。自分は生命を掛けて恋した、生命を掛くるのみか、罪はまさに死である、死すともこの革鞄の片袖はあえて離すまいと思う。思い切って鍵を棄てました。私《わたくし》はこの窓から、遥《はるか》に北の天に、雪を銀襴のごとく刺繍《ししゅう》した、あの遠山《えんざん》の頂を望んで、ほとんど無辺際に投げた
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