りがた》い。」
「きあ、二階へどうぞ……何《なん》しろ汚いんでございますよ。」
 と、雨もりのような形が動くと、紺の上被《うわっぱり》を着た婦《おんな》になって、ガチリと釣ランプを捻《ひね》って離して、框《かまち》から直ぐの階子段《はしごだん》。
 小村さんが小さな声で、
「何《なん》しろこの体《てい》なんですから。」
「結構ですとも、行暮れました旅の修行者になりましょうね。」
「では、そのおつもりで――さあ、上《あが》りましょう。」
 と勢《いきおい》よく、下駄を踏違えるトタンに、
「あっ、」と言った。
 きゃんきゃんきゃん、クイ、キュウと息を引いて、きゃんきゃんきゃん、クイ、クウン、きゅうと鳴く。
 見事に小狗《こいぬ》を踏《ふみ》つけた。小村さんは狼狽《うろた》えながら、穴を覗《のぞ》くように土間を透かして、
「御免よ……御免よ……仕方がない、御免なさいよ。」
 で、遁《に》げないばかりに階子《はしご》を上《あが》ると、続いた私も、一所にぐらぐらと揺れるのに、両手を壇の端《はじ》にしっかり縋《すが》った。二階から女房が、
「お気をつけなさいましよ……お頭《つむ》をどうぞ……お危うございますよ、お頭を。」
「何《なあ》に。」
 吻《ほっ》としながら、小村さんは気競《きお》ったように、
「踏着けられた狗から見りゃ、頭を打《ぶ》つけるなんぞ何でもない。」
 日頃、沈着な、謹み深いのがこれだから、余程|周章《あわ》てたに違いない。
 きゃんきゃんきゃん、クイッ、キュウ、きゃんきゃんきゃん、と断々《きれぎれ》に、声が細って泣止《なきや》まない。
「身に沁《し》みますね、何ですか、狐が鳴いてるように聞えます。」
 木地の古びたのが黒檀《こくたん》に見える、卓子台《ちゃぶだい》にさしむかって、小村さんは襟を合せた。
 件《くだん》の油煙で真黒《まっくろ》で、ぽっと灯の赤いランプの下に畏《かしこま》って、動くたびに、ぶるぶると畳の震う処は天変に対し、謹んで、日蝕を拝むがごとく、少なからず肝を冷しながら、
「旅はこれだから可《い》いんです。何も話の種です。……話の種と言えばね、小村さん。」
 と、探らないと顔が分らぬ。
「はあ。」
「何ですか、この辺には、あわれな、寂しい、物語がありそうな処ですね。あの、月宵鄙物語《つきのよいひなものがたり》というのがあります、御存じでしょうけ
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