を通って、私の顔を見たから、丁寧にお辞儀をすると、おや、といったきりで、橋銭を置かないで行ってしまった。
「ねえ、母様《おっかさん》、先生もずるい人なんかねえ。」
と窓から顔を引込《ひっこ》ませた。
二
「お心易立《こころやすだて》なんでしょう、でもずるいんだよ。よっぽどそういおうかと思ったけれど、先生だというから、また、そんなことで悪く取って、お前が憎まれでもしちゃなるまいと思って、黙っていました。」
といいいい母様《おっかさん》は縫っていらっしゃる。
お膝の上に落ちていた、一ツの方の手袋の、恰好《かっこう》が出来たのを、私は手に取って、掌《てのひら》にあててみたり、甲の上へ乗ッけてみたり、
「母様《おっかさん》、先生はね、それでなくっても僕のことを可愛がっちゃあ下さらないの。」
と訴えるようにいいました。
こういった時に、学校で何だか知らないけれど、私がものをいっても、快く返事をおしでなかったり、拗《す》ねたような、けんどんなような、おもしろくない言《ことば》をおかけであるのを、いつでも情《なさけ》ないと思い思いしていたのを考え出して、少し鬱《ふさ》いで[#「で」は底本では「て」]来て俯向《うつむ》いた。
「なぜさ。」
何、そういう様子の見えるのは、つい四五日前からで、その前《さき》にはちっともこんなことはありはしなかった。帰って母様《おっかさん》にそういって、なぜだか聞いてみようと思ったんだ。
けれど、番小屋へ入ると直《すぐ》飛出して遊んであるいて、帰ると、御飯を食べて、そしちゃあ横になって、母様の気高い美しい、頼母《たのも》しい、穏当な、そして少し痩《や》せておいでの、髪を束ねてしっとりしていらっしゃる顔を見て、何か談話《はなし》をしいしい、ぱっちりと眼をあいてるつもりなのが、いつか、そのまんまで寝てしまって、眼がさめると、また直《すぐ》支度を済《すま》して、学校へ行《ゆ》くんだもの。そんなこといってる隙《ひま》がなかったのが、雨で閉籠《とじこも》って、淋しいので思い出した、ついでだから聞いたので。
「なぜだって、何なの、この間ねえ、先生が修身のお談話《はなし》をしてね、人は何だから、世の中に一番えらいものだって、そういつたの。母様《おっかさん》、違ってるわねえ。」
「むむ。」
「ねッ違ってるワ、母様。」
と揉《もみ》くちゃにしたので、吃驚《びっくり》して、ぴったり手をついて畳の上で、手袋をのした。横に皺《しわ》が寄ったから、引張《ひっぱ》って、
「だから僕、そういったんだ、いいえ、あの、先生、そうではないの。人も、猫も、犬も、それから熊も、皆《みんな》おんなじ動物《けだもの》だって。」
「何とおっしゃったね。」
「馬鹿なことをおっしゃいって。」
「そうでしょう。それから、」
「それから、(だって、犬や、猫が、口を利きますか、ものをいいますか)ッて、そういうの。いいます。雀だってチッチッチッチッて、母様《おっかさん》と、父様《おとっさん》と、児《こども》と朋達《ともだち》と皆《みんな》で、お談話《はなし》をしてるじゃあありませんか。僕眠い時、うっとりしてる時なんぞは、耳ン処《とこ》に来て、チッチッチて、何かいって聞かせますのッてそういうとね、(詰《つま》らない、そりゃ囀《さえず》るんです。ものをいうのじゃあなくッて囀るの、だから何をいうんだか分りますまい)ッて聞いたよ。僕ね、あのウだってもね、先生、人だって、大勢で、皆《みんな》が体操場で、てんでに何かいってるのを遠くン処《とこ》で聞いていると、何をいってるのかちっとも分らないで、ざあざあッて流れてる川の音とおんなしで、僕分りませんもの。それから僕の内の橋の下を、あのウ舟|漕《こ》いで行《ゆ》くのが何だか唄って行《ゆ》くけれど、何をいうんだかやっぱり鳥が声を大きくして長く引《ひっ》ぱって鳴いてるのと違いませんもの。ずッと川下の方で、ほうほうッて呼んでるのは、あれは、あの、人なんか、犬なんか、分りませんもの。雀だって、四十雀《しじゅうから》だって、軒だの、榎だのに留《とま》ってないで、僕と一所に坐って話したら皆《みんな》分るんだけれど、離れてるから聞えませんの。だって、ソッとそばへ行って、僕、お談話しようと思うと、皆立っていってしまいますもの、でも、いまに大人になると、遠くで居ても分りますッて。小さい耳だから、沢山いろんな声が入らないのだって、母様が僕、あかさん[#「あかさん」に傍点]であった時分からいいました。犬も猫も人間もおんなじだって。ねえ、母様、だねえ母様、いまに皆分るんだね。」
三
母様《おっかさん》は莞爾《にっこり》なすって、
「ああ、それで何かい、先生が腹をお立ちのかい。」
そればかりではなかった、私
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