れな。もし咳《しわぶき》をだにしたまわば、怪しき幻影は直ちに去るべし。忍びて様子をうかがいたまわば、すッと障子をあくると共に、銀杏返《いちょうがえし》の背向《うしろむき》に、あとあし下りに入《い》り来りて、諸君の枕辺《まくらべ》に近づくべし。その瞬時真白なる細き面影を一見して、思わず悚然《しょうぜん》としたまわんか。トタンに件《くだん》の幽霊は行燈《あんどん》の火を吹消《ふっけ》して、暗中を走る跫音《あしおと》、遠く、遠く、遠くなりつつ、長き廊下の尽頭《はずれ》に至りて、そのままハタと留《や》むべきなり。
夜《よ》はいよいよ更けて、風寒きに、怪者の再来を慮《おもんばか》りて、諸君は一夜を待明かさむ。
明くるを待ちて主翁《あるじ》に会し、就きて昨夜の奇怪を問われよ。主翁は黙して語らざるべし。再び聞かれよ、強いられよ、なお強いられよ。主翁は拒むことあたわずして、愁然《しゅうぜん》としてその実を語るべきなり。
聞くのみにてはあき足らざらんか、主翁に請いて一室《ひとま》に行《ゆ》け。密閉したる暗室内に俯向《うつむ》き伏したる銀杏返の、その背と、裳《もすそ》の動かずして、あたかもなきがらのごとくなるを、ソト戸の透《すき》より見るを得《う》べし。これ蓋《けだ》し狂者の挙動なればとて、公判廷より許されし、良人を殺せし貞婦にして、旅店の主翁はその伯父なり。
されど室内に立入りて、その面《おもて》を見んとせらるるとも、主翁は頑として肯《がえん》ぜざるべし。諸君涙あらば強うるなかれ。いかんとなれば、狂せるお貞は爾来《じらい》世の人に良人殺しの面を見られんを恥じて、長くこの暗室内に自らその身を封じたるものなればなり。渠《かれ》は恐懼《おそれ》て日光を見ず、もし強いて戸を開きて光明その膚《はだえ》に一注せば、渠は立処《たちどころ》に絶して万事|休《や》まむ。
光を厭《いと》うことかくのごとし。されば深更|一縷《いちる》の燈火《ともしび》をもお貞は恐れて吹消《ふっけ》し去るなり。
渠はしかく活《い》きながら暗中に葬り去られつ。良人を殺せし妻ながら、諸君請う恕《じょ》せられよ。あえて日光をあびせてもてこの憐むべき貞婦を射殺《いころ》すなかれ。しかれどもその姿をのみ見て面を見ざる、諸君はさぞ本意《ほい》なからむ。さりながら、諸君より十層二十層、なお幾十層、ここに本意なき少年あり。渠は活きたるお貞よりもむしろその姉の幽霊を見んと欲して、なお且つしかするを得ざるものをや。
[#地から1字上げ]明治二十九(一八九六)年二月
底本:「泉鏡花集成2」ちくま文庫、筑摩書房
1996(平成8)年4月24日第1刷発行
底本の親本:「鏡花全集 第二卷」岩波書店
1942(昭和17)年9月30日発行
初出:「文芸倶楽部」
1896(明治29)年2月
入力:門田裕志
校正:土屋隆
2006年7月3日作成
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