ょいとこさ)を追返したよりは、なお酷《ひど》く安くしてるんだ。その癖、世間じゃ、(西村の奥様は感心だ。今時の人のようでない。まるで嫁にきたて[#「きたて」に傍点]のように、旦那様を大事にする。婦人《おんな》はああ行《ゆ》かなければ嘘だ。貞女の鑑《かがみ》だ。しかし西村には惜《おし》いものだ。)なんとそう言ってるぞ。そうすりゃ世間も恐しくはなかろうに、何だって、あんなにびくびくするのかなあ。だから姉様は陰弁慶だ。」
 と罪もなくけなし[#「けなし」に傍点]たるを、お貞は聞きつつ微笑《ほほえ》みたりしが、ふと立ちて店に出《い》で行《ゆ》き、往来の左右を視《なが》め、旧《もと》の座に帰りて四辺《あたり》を※[#「目+句」、第4水準2−81−91]《みまわ》し、また板敷に伸上りて、裏庭より勝手などを、巨細《こさい》に見て座に就きつ。
「それはね、芳さん、こうなのよ。」
 という声もハヤふるえたり。
「芳さんだと思って話すのだから、そう思ッて聞いておくれ。
 私はね、可いかい。そのつもりで聞いておくれ。私はね、いつごろからという確《たしか》なことは知らないけれど、いろんな事が重《かさな》り重りしてね、旦那が、旦那が、どうにかして。
 死んでくれりゃいい。死んでくれりゃいい。死ねばいい。死ねばいい。
 とそう思うようになったんだよ。ああ、罪の深い、呪詛《のろ》うのも同一《おんなじ》だ。親の敵《かたき》ででもあることか、人並より私を思ってくれるものを、(死んでくれりゃいい)と思うのは、どうした心得違いだろうと、自分で自分を叱ってみても、やっぱりどうしてもそう思うの。
 その念《おもい》が段々|嵩《こう》じて、朝から晩まで、寝てからも同一《おんなじ》ことを考えてて、どうしてもその了簡《りょうけん》がなおらないで、後暗いことはないけれど、何《なん》に着け、彼《か》に着け、ちょっとの間もその念《おもい》が離れやしない。始終そればかりが気にかかって、何をしても手に着かないしね、じっと考えこんでいる時なんざ、なおのこと、何にも思わないでその事ばかり。ああ、人の妻の身で、何たる恐しい了簡だろうと、心の鬼に責められちゃあ、片時も気がやすまらないで、始終胸がどきどきする。
 それがというと、私の胸にあることを、人に見付かりやしまいかと、そう思うから恐怖《こわい》んだよ。
 わけても、旦那に顔を見られるたびに、あの眼が、何だか腹の中まで見透《みすか》すようで、おどおどしずにゃいられない。(貞)ッて一声呼ばれると、直ぐその、あとの句が、(お前、吾《おれ》の死ぬのが待遠いだろう。)とこう来るだろうと思うから、はッとしないじゃいられないわね。それで何ぞ外のことを言われると、ほッと気が休まって、その嬉しさっちゃないもんだから、用でも、何でも、いそいそする。
 それにこうやって、ここへ坐って、一人でものを考えてる時は、頭の中で、ぐるぐるぐるぐる、(死ねば可い)という、鬼か、蛇《じゃ》か、何ともいわれない可恐《こわい》ものが、私の眼にも見えるように、眼前《めさき》に駈《かけ》まわっているもんだから、自分ながら恐しくッて、観音様を念じているの。そこへがらりと戸を開けられちゃあ、どうして慌てずにいられよう。(ああ、めッかった。)と、もう死んだ気になっちまう!
 それが心配で、心配で、どうぞして忘れたいと思うから、けもないことにわあわあ騒いだり、笑ったり、他所《よそ》めには、さも面白そうに見えようけれど、自分じゃ泣きたいよ。あとではなおさら気がめいッて、ただしょんぼりと考え込むと、また、いつもの(死ねばいい)が見えるようなの。
 恐しくッてたまらないから、どうぞこの念がなくなりますようにと、観音様に願っても、罪が深いせいなのか、段々強くなるばかり。
 気のせいか知らないけれど、旦那は日に日に血色が悪くなって、次第に弱って行く様子、こりゃ思いが届くのかと考えると、私ゃもう居ても起《た》っても堪《たま》らない。
 だから旦那が煩いでもすると、ハッと思って、こりゃどうでも治さないと、私が呪詛《のろい》殺すのだと、もうもうさほどでもない病気でも、夜《よ》の目も寝ないで介抱するが、お医者様のお薬でも、私の手から飲ませると、かえって毒になるようで、何でも半日ばかりの間は、今にも薬の毒がまわって、血でも吐きやしないかしらと、どうしてその間の心配というものは! でもそれでもやっぱり考えることといったら、ちっとも違《ちがい》はない、(死ねば可い。)で、早くなおって欲しいのは、実は(死ねば可い。)と思うからだよ。
 ねえ、芳さん分ったろう。もう胸が一杯で、口も利かれやしないから、後生だ、推量しておくれ。も、私ゃ、私はもう芳さんどうしたら可いんだねえ。」
 と身を震わしたるいじらしさ!
 お貞がこ
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