ばねばとして膠《にかわ》らしきが着きたりという。もっともその女|昏迷《こんめい》して前後を知らずとあり。
 何の怪のなす処なるやを知らず。可厭《いや》らしく凄《すご》く、不思議なる心持いまもするが、あるいは山男があま干《ぼし》にして貯《たくわ》えたるものならんも知れず、怪《け》しからぬ事かな。いやいや、余り山男の風説《うわさ》をすると、天井から毛だらけなのをぶら下げずとも計り難し。この例本所の脚洗い屋敷にあり。東京なりとて油断はならず。また、恐しきは、
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猿の経立《ふつたち》、お犬の経立《ふつたち》は恐しきものなり。お犬とは狼のことなり。山口の村に近き二ツ石山は岩山なり、ある雨の日、小学校より帰る子どもこの山を見るに、処々の岩の上にお犬うずくまりてあり。やがて首を下より押上ぐるようにしてかわるがわる吠《ほ》えたり。正面より見れば生れ立ての馬の子ほどに見ゆ、後《うしろ》から見れば存外小さしと云えり。お犬のうなる声ほど物凄《ものすご》く恐しきものなし。
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 実《げ》にこそ恐しきはお犬の経立ちなるかな。われら、経立なる言葉の何の意なるやを解せずといえども、その音の響《ひびき》、言知らず、もの凄《すさ》まじ。多分はここに言える、首《こうべ》を下より押上《あしあぐ》るようにして吠ゆる時の事ならん。雨の日とあり、岩山の岩の上とあり。学校がえりの子どもが見たりとあるにて、目のあたりお犬の経立ちに逢う心地す。荒涼たる僻村《へきそん》の風情も文字の外にあらわれたり。岩のとげとげしきも見ゆ。雨も降るごとし。小児《こども》もびしょびしょと寂《さみ》しく通る。天地この時、ただ黒雲の下に経立《ふつた》つ幾多馬の子ほどのお犬あり。一つずつかわるがわる吠ゆる声、可怪《あや》しき鐘の音《ね》のごとく響きて、威霊いわん方なし。
 近頃とも言わず、狼は、木曾街道にもその権威を失いぬ。われら幼き時さえ、隣のおばさん物語りて――片山里にひとり寂しく棲《す》む媼《おうな》あり。屋根傾き、柱朽ちたるに、細々と苧《お》をうみいる。狼、のしのしと出でてうかがうに、老いさらぼいたるものなれば、金魚麩《きんぎょぶ》のようにて欲《ほし》くもあらねど、吠えても嗅《か》いでみても恐れぬが癪《しやく》に障りて、毎夜のごとく小屋をまわりて怯《おびや》かす。時雨しとしとと降りける夜《よ》、また出掛けて、ううと唸《うな》って牙を剥き、眼を光らす。媼しずかに顧みて、
 やれ、虎狼より漏るが恐しや。
 と呟《つぶや》きぬ。雨は柿の実の落つるがごとく、天井なき屋根を漏るなりけり。狼うなだれて去れり、となり。
 世の中、米は高価にて、お犬も人の恐れざりしか。
[#地から1字上げ]明治四十三(一九一〇)年九月・十一月



底本:「泉鏡花集成8」ちくま文庫、筑摩書房
   1996(平成8)年5月23日第1刷発行
底本の親本:「鏡花全集 第二十八卷」岩波書店
   1942(昭和17)年11月30日発行
入力:門田裕志
校正:noriko saito
2008年10月23日作成
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