續けて又唱へた。
「南無觀世音……」
この耳近な聲に、娘分は湯上りに化粧した頸を垂れ、前髮でうつむいた、その白粉の香の雨に傳ふ白い顏に、一條ほんのりと紅を薄くさしたのは、近々と蓑の手の寄せた提灯の――模樣かと見た――朱の映つたのである、……あとで聞くと、朱で、かなだ、「こんばんは」と記したのであつた。
このまざ/\と口を聞くが、聲のない挨拶には誰も口へ出して會釋を返す機を得なかつたが、菩薩の稱號に、其の娘分に續いて、糸七の女房も掌を合はせた。
「南無觀世音……」
又繰返しながら、蓑の下の提灯は、洞の口へ吸はるゝ如く、奧在所の口を見るうちに深く入つて、肩から裙へすぼまつて、消えた。
「まるで嘲笑ふやうでしたな、歸りがけに、又あの梟めが、まだ鳴いて居ます――爺い……老爺らしうございましたぜ。……爺も驚きましたらう、何しろ思ひがけない雨のやみに第一ご婦人です……氣味の惡さに爺もお慈悲を願つたでせうが、觀音樣のお庇で、此方が助かりました、……一息冷汗になりました。」
する/\と車は早い。
「觀音樣は――男ですか、女で居らつしやるんでございますか。」
響の應ずる如く、
「何とも言へない、うつくしい女のお姿ですわ。」
と、淺草寺の月々のお茶湯日を、やがて滿願に近く、三年の間一度も缺かさない姪がいつた。
「まつたく、然うなんでございますか、旦那。」
「それは、その、何だね……」
いゝ鹽梅に、車は、雨もふりやんだ、青葉の陰の濡色の柱の薄り青い、つゝじのあかるい旅館の玄關へ入つたのである。
出迎へて口々にお皈んなさいましをいふのに答へて、糸七が、
「唯今、夜遊の番傘が皈りました――熊澤さん、今のはだね、修禪寺の然るべき坊さんに聞きたまへ。」
天狗の火、魔の燈――いや、雨の夜の畷で不思議な大きな提灯を視たからと言つて敢て圖に乘つて、妖怪を語らうとするのではない、却つて、偶然の或場合には其が普通の影象らしい事を知つて、糸七は一先づ讀しやとゝもに安心をしたいと思ふのである。
學問、といつては些と堅過ぎよう、勉強はすべきもの、本は讀むべきもので、後日、紀州に棲まるゝ著名の碩學、南方熊楠氏の隨筆を見ると、其の龍燈に就て、と云ふ一章の中に、おなじ紀州田邊の絲川恒太夫といふ老人、中年まで毎度野諸村を行商した、秋の末らしい……一夜、新鹿村の湊に宿る、此の湊の川上に淺谷と稱ふるの
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