ける幻と誤るであろう。袖口《そでくち》、八口《やつくち》、裳《もすそ》を溢《こぼ》れて、ちらちらと燃ゆる友染《ゆうぜん》の花の紅《くれない》にも、絶えず、一叢《ひとむら》の薄雲がかかって、淑《つつ》ましげに、その美を擁護するかのごとくである。
岐阜《ぎふ》県××町、――里見稲子《さとみいなこ》、二十七、と宿帳に控えたが、あえて誌《しる》すまでもない、岐阜の病院の里見といえば、家族雇人《やからうから》一同神のごとくに崇拝する、かつて当家の主人《あるじ》が、難病を治した名医、且つ近頃三由屋が、株式で伊勢の津《つ》に設立した、銀行の株主であるから。
晩景、留守を預るこの老番頭にあてて、津に出張中の主人《あるじ》から、里見氏の令夫人参宮あり、丁寧に宿を参らすべき由、電信があったので、いかに多数の客があっても、必ず、一室《ひとま》を明けておく、内証の珍客のために控えの席へ迎え入れて、滞《とどこお》りなく既に夕餉《ゆうげ》を進めた。
されば夫人が座の傍《かたわら》、肩掛、頭巾《ずきん》などを引掛《ひっか》けた、衣桁《いこう》の際《きわ》には、萌黄《もえぎ》の緞子《どんす》の夏衾《なつぶすま》、高く、柔かに敷設けて、総附《ふさつき》の塗枕《ぬりまくら》、枕頭《まくらもと》には蒔絵《まきえ》ものの煙草盆《たばこぼん》、鼻紙台も差置いた、上に香炉を飾って、呼鈴《よびりん》まで行届《ゆきとど》き、次の間の片隅には棚を飾って、略式ながら、薄茶の道具一通。火鉢には釜《かま》の声、遥《はるか》に神路山の松に通い、五十鈴川の流《ながれ》に応じて、初夜も早や過ぎたる折から、ここの行燈《あんどう》とかしこのランプと、ただもう取交《とりか》えるばかりの処。
「ええ、奥方様、あなた様にお客にござりまして。」
優しい声で、
「私に、」と品よく応じた。
「はッ、あなた様にお客来《きゃくらい》にござりまする。」
夫人はしとやかに、
「誰方《どなた》だね、お名札《なふだ》は。」
「その儀にござりまする。お名札をと申しますと、生憎《あいにく》所持せぬ、とかようにおっしゃいまする、もっともな、あなた様お着《つき》が晩《おそ》うござりましたで、かれこれ十二時。もう遅うござりますに因って、御一人旅の事ではありまするし、さようなお方は手前どもにおいでがないと申して断りましょうかとも存じましたなれども、たいせつ
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