一緒に飮まうぢやないか……」醉ひどれ男は千鳥足に私達に近附いて來て、私の手を掴みながらひつつこく酒を強ひようとした。その肥つた手を振り拂つて、Kと私はカフエエを出た。冷たい夜風がほてつた頬を氣持よく撫でて過ぎた。
 Kも私も默默として歩き續けた。二人の心の内には人の聲を抑へつけるやうな或る力が深く働いてゐた。そして、恐らくKも私と同じやうに無言の中に、或る一つの事を考へてゐるに違ひなかつた。あの不幸な老いたる漂泊者、あの饒舌な醉ひどれ男、ふと私の頭の中には、色色な運命を擔つて人は生れる――さう云つた意識が新しい陰影を伴つて、強く感じられて來た。私は暗い氣持に胸を抑へられながら、あの老人の寂しい運命の行末を思つた。あの醉ひどれ男のたはれた生活の行末を思つた。と、私の頭には今更のやうに人間の一生の果敢なさが感じられて來た。
「あの老人の身に降りかかつた不幸、また僕がSを却けてI子を羸ち得た幸福、それも同じやうなただ一つの運命の操りの糸か知ら……」と、明るい電車通に出た時、ふとKが口を切つた。
「さうかも知れない。僕には、今、すべての人間の意志と行爲とが、擅な運命の力強い手に全く支配されてゐるやうな氣がするから……」と、それまでのKの努力と心の惱みを深く知りながらも、思はず私はさう答へ返した。
「寂しいね……」と、Kは呟いた。
「寂しいね……」と、私も同時に呟いた。
 何時か雨もよひの空になつてゐた。濃い霧は更け渡つた夜の町を深く、しつとりと包んでゐた。そして、その中にすべての街路の燈灯が涙を含んだやうに潤んだ光を投げてゐた。――Kと私とは暗い路上に視線を落したまま、詞もなく、あてど[#「あてど」に傍点]もなく歩き續けて行くのだつた。



底本:「若き入獄者の手記」文興院
   1924(大正13)年3月5日発行
入力:小林徹
校正:柳沢成雄
2000年2月19日公開
2006年1月11日修正
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