力強く受け答へた。そして、ビイルのコツプ片手に立ち上ると、彼は少しよろめきながら、その丈高い痩躯を私の卓に近附けて來た。彼の顏には今までの力の無い、寂しげな微笑は消えて、恰も舊知に接したやうな晴れやかな眼色と、故國の文字を讀み上げた異國の青年に對する好奇の光とが、その顏中に表れた。が、うす白髮の髭の生えた口元を喜びに笑み崩しながら、被さるやうに迫つて來たその姿を見ると、私は何となくどぎまぎし出した。そして、聞き噛りの語學に對する無力の頼りなさは、その時一齊に私に注がれた人達の視線と共に、かつと私の顏を燃え上らせた。私は俯向いて、てれ隱しに冷えた紅茶を啜つた。
 老人は私の傍の椅子に腰を降して、もう一度ぢつと私の顏を覗き込んだ。白哲人種特有の體臭がむつと私の鼻を衝いた。
「君はロシヤ語が話せるんですか?」と、老人はロシヤ語で訊ねた。
「いいえ……」と、私が答へると、老人の顏には期待を裏切られた當惑の色がまざまざと浮んだ。
「でも、君は字が讀めるぢやありませんか。」
「字は少し讀めます。然し、話はまるで駄目です……」老人は怪しげな發音の、そして全く片言の私の詞を聞きながら、不思議な面持で私を見詰めてゐたが、それでも通話の道を得た滿足らしい表情を見せた。その表情はますます私を畏縮させたが、續いて彼が何かを云はうとした時、反對に彼の詞を遮つて私は訊ねた。
「英語はお話せになりませんか?」
「いや、駄目です。然し、フランスかドイツならば……」
「ドイツ語がお話しになれるんですか。私もそれなら少しはやれます……」と、自分ながら文法書の引例のやうな堅苦しいドイツ語に氣が差しながら、そして、自ら厚顏に驚きながら云つた。
「ふむ。ドイツ語が話せますか?」老人は羊のやうな優しい眼をしばだたかせて頷いた。そして、コツプの縁を叩きながら、給仕女にビイルを命じた。
「おい、僕にもくれ給へ……」私も續いて云つた。「何だい。そんなににやにや笑ふなよ。全く汗みづくだ。ドイツだつてずゐ分怪しいんだからな……」と、私は煙草を吹かしながら皮肉らしく笑つてゐるKを振り返つた。
「かうなりや仕方がない。やるだけやるさ……」かう云つたKに顏を見合せて笑つた時、傍の老人はそれを自分に對する好感の表現とでも思つたのか、同時に快活に笑つた。
「君は學生ですか?」ビイルを一口啜つてかう云つた老人のドイツ語は、期待した程流暢ではなかつた。それが少し私を元氣づけた。
「いいえ、學生生活はもう終りました。」
「それにしては大變若く見えますよ……」と、老人は怪訝さうに私を見て、默り込んだ。
「何時日本へおいででしたか?」
「一月程前に……」
「一體、あなたの故郷は何處です……」話の中絶する手持無沙汰をもて餘して、反對に何かを訊ねようとあせりながらかう云つた時、老人はひよいと眞顏のなつた。と同時に、その眼は何か悲痛な事柄にでも出會つたやうに暗い瞬きを繰り返した。そして、やがて深い惱みの色がその微醺を帶びた顏中に擴がった。
 老人の刹那の表情の變化を見ながら、自分の迂濶な詞がその胸に與へた或る痛みを想像した時、私の頭には老人の背後に大きな悲劇の影を作つてゐるロシヤのことがふと思ひ浮んだ。そして、この好人物らしい老人が、若しや不幸な、慘酷な運命の渦卷の中に呻いてゐる故國から心を破られ、住む家を追はれて寂しく流浪して來た不幸な人達の一人ではないかと思つた時、自分の心なき問の詞を悔いずにはゐられなかつた。
 暫くの沈默の内に暗い回想に沈んでゐたらしい老人は、やがてためらひながら、重い唇を開いて云つた。
「ハリコフだ。」
「ハリコフ……」私は老人の聲に續いて、思はず聲を上げた。そして、今自分の傍に坐つてゐる老人と、その故郷との隔りの餘に遠過ぎる事を傷ましく思ひ浮べた。
「さうです。ハリコフを出てからかれこれ一年になります。あの町がその後どうなつたか、私の家、私の家族がどうなつたかは少しも分りません……」かう云つてちよつと詞を途切つた老人は深く眉を顰めたが、少しせきこむやうにして續けた。「君はツアアル一家虐殺の話を聞きましたか?」
「聞きました。ほんとに殘虐《グラウザム》な話です。」
「然し、私の家族がさう云ふ目に會つてゐないとは、どうして云へませう……」老人の聲は沈んだ。そして、形の好い、高い鼻の下に生えてゐる、如何にも身柄の好さを語るやうな銀白の髭が細く、幽かに顫へた。
「では、全く一人で日本へ來られたのですね。」
「さうです。たつた一人でです。私は全く妻子の運命を考へる隙もなく命一つで遁げて來ました。とに角、この平和な日本へ來るまでの困難は考へても恐ろしい程でした。今はTホテルにゐるのですが、さて、これから何處へ行かうと云ふ望みもありません。それに知人はなし、ほんとに寂しい……」と、その|寂し
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