べて、話し合つた。硝子戸越しに差す日影は春らしく氣持よく輝いてゐた。
「おい、この間|高輪《たかなわ》の御殿山で猫又さんに會つたぜ。」何かの話が途切れた後で、得能はふと思ひ出したやうに云つた。
「なに、猫又さんに……」私は驚いて聞き返した。
「さうなんだ。丁度土曜日でね、あの近所にゐる友達を訪ねた、處がゐなかつた、その歸り路さ。ほら毛利公爵の邸の横手に薄暗い急な坂道があるだらう。八つ山へ降りる……あすこでなんだ。」得能は海軍士官らしい輕快な調子で話し出した。
「妙な處で會つたもんだね。」
「さうだ。とに角僕が坂を降り掛けようとすると、下からペンギン鳥のやうな恰好で登つてくる老人がある。それが君、思ひ掛けない猫又さんさ。而も羊羮色になつた黒のモオニングに、穴のあいた中折を被り、そして泥まみれの深ゴム靴は圓い革を當てて處々|繕《つくろ》つてある……」
「何だい、まるで昔そのままぢやないか。」私の眼の前には、T中學校の教室で見慣れた猫又先生の姿が、ひよつくり浮び上つた。
「だからね、あんまり樣子が變らな過ぎるよ。小田原提灯のやうなヅボンの皺から、手の上に二寸もはみ出た白いカフスの汚れ方、それに例の金鎖さ。で、ひよいと先生の姿を見た時は、その昔のままなのが堪らなく懷《なつか》しくつてね。思はず駈け寄つて觸つてみたいやうな氣持がした。然し、流石《さすが》に昔のことを思ふと、氣が引けて話し掛ける勇氣も出なかつた。そしてぐづぐづしてる内に、お互に擦《す》れ違つてしまつたんだ。無論僕を、海軍中尉の服を着てゐた僕を、十年前の教へ子だと氣附かれる筈もない。先生にとつて僕は全く路傍の人だつたのさ。」
「無理もない。考へてみると、丁度十年になるからね。」私は少し囘想的な、センチメンタルな氣持になつた。
「然し、全くお互にあの時分は若かつた。君も隨分やんちやなお坊ちやんだつたが、實際、何處の學校騷動にだつて、顏付が氣に入らないつて先生に食つて掛かつた生徒は先づあるまい。人間は感情の動物です――なんかは、恐らく君一代の傑作だね。」得能はさう云つて、スリイ・キャッスルの烟《けむり》を吹いた。二人も顧みて高らかに笑つた。
「だが、先生はやつぱり先生をやつてられるのか知ら……」
「さ、それが確にさうなんだ。その時、二人が擦れ違つた途端にひよいと振り向くと、先生の少し猫背になつた肩の處にチョオクの粉が白く降り掛かつてゐるぢやないか。それが、先生が相變らず先生であることを證據立ててる……」得能はかう云ふと、詞を途切《とぎ》つて氣持よく澄んだ空を眺めた。
「細《こまか》い觀察だね。」と云ひながら、私も彼の視線の跡を追つた。
「所が、忌憚《きたん》なく云へば、その時それを見て、僕は骨董品の埃を何云ふとなく聯想した。」得能は再び私の方を振り向いて云つた。その潮燒けのした淺黒い顏に、皮肉な微笑が漂《ただよ》つた。
「骨董品の埃……」と、何氣なく私は呟いたが、その埃に埋もれかけてゐる先生の身を氣の毒に思ふよりも、寧ろ多くの人間のみじめさをシンボライズしてゐるやうな先生の姿が、一ツの irony として私の胸に迫つて來た。「然し、人間もああなりや立派な骨董品だね。そしてもう野心もなし、希望もなし、不平もなし、先生にとつて今程幸福な時はあるまい。」得能は私の沈默をよそにかう云つて、朗かに笑ひ出した。
[#地から1字上げ](大正八年四月「三田文學」)
底本:「現代日本文學全集 85 大正小説集」筑摩書房
1957(昭和32)年12月20日発行
入力:小林徹
校正:丹羽倫子
1999年6月24日公開
2006年1月10日修正
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