また一人が叫んだ。
「然し、あの挨拶つ振りなんか見てると、人は好ささうだね。」と、得能が振り返つた。
「人が好ささうだつて、そいつはどうだかな。」副級長の松川が、それに答へた。
「だつて顏を赧《あか》くしたり、もぢもぢしたりして、何だか落ち着かなかつたぜ。」
「そりや違ふ、それで人が好いとは云へない。人間、誰だつて初めん時はちよいとてれるからね。」松川がまた反對した。
「てれる……」と、得能が呟いた。
「まあどつちみち、杉山先生とは比べ物にならないさ。」と、首藤が二人の間に口を※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]んだ。
姿から來た先生の印象は、とに角みんなの心持に輕い失望を與へたらしい。が、何《いづ》れにしてもみんなの口は、新任先生の下馬評に賑《にぎは》つて、囁《ささや》きとなり呟きとなり笑ひとなつて、部屋の空氣がざわめき立つてゐた。
「來たよ、來たよ。」と、一人が聞き耳を立てて叫んだ。
途端に、廊下から先生の靴音が明かに聞えて來た。みんなは一齊に默り込んで、顏を見合せた。教室は急に谷底にでも沈んだやうにひつそりして、ずんと抑へかかるやうな沈默が其處に擴がつた。そしてその靴底から傳はつてくるモノトナスな響が、みんなの聽覺を擽《くすぐ》るやうに刺戟した。而も、それが近寄つてくるにつれて、金屬と板との擦れ合ふやうな鈍音が聞えるのは、双の靴底に重い鐵の金具が打ち着けてあつたからに違ひない。
扉のハンドルががちやりと鳴つて、教壇の上に先生の姿を見るまでの數秒間、先生の動作は講堂で見た時のそれとは、餘程落ち着いてゐるやうに思はれた。それは恐らくは、初めての先生を目前に見ると云ふ一種のあらたまつた心持が、拔目のない私達の觀察眼を鈍らした爲めか、或は教へ子の前に自己の威嚴を保たうとする先生の意志が、十分の戒心を自らに加へた結果か、何れにせよ、先生が黒板を前にして端然と直立された時、私達は級長谷の號令に應じて、謹嚴な心持で一禮を行つたのである。先生の顏はそれに對して幽《かす》かに赧《あか》らんだが、それは明かに私達の敬意に答へる滿足の紅潮で、また實際の處、新任挨拶の爲めに着用されたフロッコオトの黒が譬《たと》へ古色蒼然たるものであつたにせよ、師としての敬意に價ひするだけの感じを、私達の心に與へてゐたのである。挨拶を濟《すま》した私達は緊張し
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