を叩く音が入り混つて聞えた。
「馬、馬、馬鹿つ……」先生は顏に蚯蚓《みみず》のやうな青筋を立てて、上村の席に近寄つた。
「教室を何と心得る。お前は、お前は……」
「お前とは何です。僕は學生ですぞ。」
「生意氣云ふな。お前のやうな奴はお前で澤山《たくさん》だ。」先生はせき込みながら續けた。「一體、つまらんとは何の云ひ草だ。」
「つまらんけんつまらんですたい。分らんですか、シエんシエい……」
上村はけろりとした顏附で答へた。いきり立つた先生と、糞落ち着きに落ち着いた上村とのコントラストはまるでポンチ繪だつた。
「お前は己《おれ》を馬鹿にするのか、その分では濟まされないぞ。さあ教室を出ろ、出て行けつ……」先生の顏は蒼白に變つて、唇は怒りの爲めにぶるぶる顫《ふる》へてゐた。上村は空嘯《そらうそぶ》いて脇を向いた。不愉快な沈默が教室中に流れた。
「先生、『方丈記』の講義を續けて下さい。」と、級長の谷がわざとらしく叫んだ。「さうだ、さうだ……」と、みんなはまたそれにわざとらしく雷同した。先生は憎惡に燃えた眼で上村を見返りながら、舌打ちした。そして靴音荒く教壇に歸つた。讀本が再び手に取られた。
「質問があります。」と、哲學者としてみんなの尊敬を集めてゐた武井が、Pensive な瞳を上げて立ち上つた。
「何だ……」先生は我を守るやうに身構へた。
「先生の今講義なさいました『方丈記』の中には長明の人生觀の面白味があります。それに對する先生の御意見が伺ひたいと思ひます。字句ばかりの解釋では、國語なんて無意味です。」理智的な鋭さを持つた武井の蒼白い顏が、赧《あか》らんだ。どよめいた部屋の空氣がふと鎭まつた。意外な質問を受けた先生の顏には、狼狽の色が幽かに現れた。
「そ、それはある。長明は厭世家だ、この世を悲觀したのだ。つまりその頃の天災地變の哀れさを見て……」先生は口籠《くちごも》りながら云つた。
「それは分つてゐます。」と、武井が遮《さへぎ》つた。「長明の思想は佛教の輪※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]説《りんねせつ》の影響を受けた厭世思想だと思ひます。彼は天災地變に苛《さいな》まれる人生の焦熱地獄に堪へられなくなつて、この假現の濁世《ぢよくせ》穢土《ゑど》から遁《のが》れようとしたのです。そして解脱《げだつ》しようとしたのです。然し『方丈記』に現れた處では長明の思想は不徹
前へ
次へ
全16ページ中8ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
南部 修太郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング