出現から腕無し藝者の妻吉の話が出る。妻吉が一錢蒸汽の中で自分の繪葉書を賣りつけられた話、上陸の時船員が手を取つてやらうとしてはめてゐた義手を掴み、それがスポリとぬけたのに驚いて腰をぬかした話。いつしか蒸汽は吾妻橋へ着いてゐた。
穩かな行樂日和に淺草は賑かだつた。仲見世をブラブラ歩いて行く内に自分は少し息苦しくなつて來たので、梅園へはいつて一休みした。そして、さういふ姿をお眼に掛ける失禮をお詫びしながら、暫くアストオル吸入器を用ゐた。幾らか樂になつた。小倉汁粉をすすりながら三十分ほどを過す。それから淺草寺觀音へ詣でて、奧山から瓢箪池の橋を渡つて活動街へ。相變らずいろいろとお話を伺ひながら、やがて田原町へ出た。
「銀座へ參りませう?」と、自分は更に先生をお誘ひして自動車を呼び止めた。
さてもさても心樂しき半日かな。慶應義塾の文科生時代に級友の井汲清治、福原信辰、それに今は亡き宇野四郎等と先生ともどもに銀座へ歩き出たりした事は幾度かあつたが、その頃から殆ど二十年振の今日思掛ない事柄が老先生とのかういふ半日を與へてくれた。健康がもつと滿足だつたら聊か憾みだつたが、それから銀座の資生堂で簡單な夕食をとりながらお話を伺つてゐる内に喘息の發作が幾分強まつてくる氣配だつた。
「畜生つ、畜生つ……」と、内心に呟きながら、手洗所へ立つて、わざわざ扉のある方へはひり、聊かあせるやうな氣持でアストオル吸入をつづけてみるのだつたが、もう駄目だつた。どうやらほんとの發作に進んでしまつたらしかつた。が、そんな氣配を今日殊更に先生にお見せるのは厭やだつた。そして、戸外の薄暗くなる頃まで自分はさりげなく先生との雜談に時を移してゐた。
六時過ぎ資生堂の前で先生とお別れした。夜店を見に行くとおつしやる先生とまだお別れしたうもない心持だつたが、だんだん強くなつてくる息苦しさには勝てなかつた。畜生つ喘息め! 畜生つ喘息め! 自分は自らに腹を立てながらすぐ自動車に乘つた。
「厭やアね、もつと早く歸つてらつしやればいいのに……」と、息を喘がせながら内玄關で靴をぬいでゐる自分の姿を見ると妻が如何にも簡單な感じでさう言つた。
「馬鹿つ……」と、自分は思はず言つた。さういふ時には妻にも、いや、恐らく誰にも腹立たしい。さうして實に佗びしい他人を感じる。それは喘息持ちにして初めて知り得る不幸であるらしい。
エフエドリン二錠を服用してすぐ臥床。
金曜日――。
土曜日――。
二日とも喘息發作で遂に臥床。今年は元日以來一度も病臥に及んだ事なく、生れて初めての輝かしき記録だつたが、やつぱり一年間とは通せなかつた。然し、アドリナリン注射を要する強烈な發作には至らずに濟んだ。そして、臥床のお蔭で文藝春秋、三田文學、中央公論、改造、話、オオル讀物、モダン日本などの十二月號、エラリイ・クイインの三作、それに土居市太郎八段から贈られた「將棋作戰學」までも讀み上げてしまつた。この點だけはたまの病臥も惡くないと勝手な事も思ふ。
日曜日――。
やつと喘息發作も鎭まつたので、午後の半日だけ起きてゐたが、夜再び床に就いてラヂオなどを聞いてゐる内に變に體に寒氣がし出したので檢温器をあててみると八度一分、十一時にはそれが九度二分なつてゐた。以前發作で五日一週間を臥床して、それが鎭まる前にはきつと九度、四十度の發熱がお極りだつた。高熱による體内の異和が發作に何が影響するのであらう。これで十月中旬來引きつづいての朝毎の喘息發作も一おう納るのだらうと思ふと、恐らく人によつては非常な苦惱に違ひないところの九度二分の發熱も自分には何物でもなく、一種の肉體的福音なのだ。が、ただいつまでも眠りつけなかつたのはさすがにちつと閉口だつた。(終り)
底本:「三田文學」三田文學會
1936(昭和11)年1月1日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:小林 徹
校正:松永正敏
2003年12月6日作成
青空文庫作成ファイル:
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