の往き來を前にして、不遜にもこのお辭儀役達必ずしも神妙に控へてもゐなかつたが、とにかく役目を濟まし、最後の燒香を終へてホツと一息吐いた。
 混雜するお寺の玄關先、水上瀧太郎さんにふと紹介されて喜多村緑郎丈と初めて詞を交へた。自分が十八の中學四年生の秋、それまで見ず嫌いで一度も見た事がなかつた芝居といふものを偶然の事から初めてみたのが本郷座の新派劇「白鷺」、そのヒロインのおつた[#「おつた」に傍点]で心憎くもたつた一度で自分を一時有頂天なほどの芝居好きにしてしまつたのが喜多村緑郎丈だつたが、今や向うは龍土町、自分は新龍土町と一町ほどの近所に住む間柄だ。
「同町内のよしみ[#「よしみ」に傍点]で……」と、挨拶すると、「いや宜しく……」と、三十年に近い「白鷺」の昔ながらに一向年をとつても見えない、覇氣充ちあふれた、この不思議な名女形は齒切れのいい句調で言つて、輕い皮肉めいた微笑を口元に浮べながら、「然しお宅は上の方の町内でせう? こないだ女中殺しのあつた……」
「ははは、物騷な方か……」と、引き取つて咳き、水上さんが顏を笑ひ崩した。
 三時前歸宅。モオニングを和服にくつろいでガス暖爐の前に坐ると間もなく、これも同町内の梅原龍三郎さんから電話。先方の臺灣旅行でこのところ久振の將棋の挑戰だ。時もよし、ござんなれと待つほどもなく、先づお土産の大甲藺製の卷煙草入を頂戴し、臺灣の話もそこそこにして早速一番、ところがこれが意外の大亂戰となつてしまつた。序番自分よく、中盤惡手から駒損となり玉再再ならず窮地に陷つて、梅原さん意氣大に上つてゐたが、自分屈せず腹を据ゑて長考幾度、やがて百二三十手頃の終番に近く、隙を見て奮然逆襲、敵の應酬の失を捉へて過に勝名乘を擧げてしまつた。正に一時間半餘に及ぶ珍しき力戰、梅原さんの無念の色は深かつたが、かういふ一戰は負けても勝つても寧ろ憾みなしと言ふべきか?
 六時過、和木清三郎、倉島竹二郎來訪。雜談の後、再び棋戰を交へてゐると、突然東日社から倉島君へ電話。神田七段の昇段問題で日本將棋聯盟に紛擾起り、分裂の危機に頻すとの事、お役目柄倉島君忽卒として暇を告げて行く。入れ違ひに文藝春秋社の文士劇の舞臺稽古をして來たといふ佐佐木茂索來訪。三人で暖爐を取りかこみながら雜談、再び棋戰交交、つい十二時近くになつてしまつた。

 水曜日――。
 昨日一日の疲れか明方やや強い喘息發作、アストオル吸入で鎭まるには鎭まつたが何やら不安なのでエフエドリン一錠半服用、例の陶醉的作用でやがて再び昏昏と眠り入る。十二時近く起床。幸ひ發作はすつかり止まつてゐたが、劇藥的な錠劑服用のあとで頭重く、體だるく、氣分がひどく陰欝だが、さういふ状態を人には出來るだけ平然と裝つてゐたいのが變に意地つ張りな自分の癖だから、それか自らには一そう内訌する。こいつが晝には全くやりきれない。生きる事の辛さを感じる。
 三時頃、散髮でもしようと思ひ立つて家を出る。電車通で息子さんを連れた大宮春枝夫人に會ふ。息子の勉強の事で今お宅へ御相談に行く所だといふ。家へ戻らうといふと、それには及ばぬといふので、立話で用件を聞いて六本木の散髮屋の方へと別れる。別れてから、やつぱり自分は少少不機嫌なのだなとすぐ思ふ。いつもの自分ならあれほど息子さんのために心を碎いてゐる春枝夫人のために進んで家へ戻つたに違ひなかつたから。然し、今や二十餘年お馴染みの散髮屋でクシヤクシヤした頭をいじつてもらひ、お互に口數は少い方だがポツポツ氣樂な世間話を交へてゐる内に、何となくふさぎの蟲の飛び散つて行くの感じた。そして、頭を洗つてサツパリして理髮屋を出ると、近所の古本屋二軒で暫く隙を潰した。一軒ではエラリイ・クイインの「エヂプト十字架の祕密」と「ロオマ劇場事件」と「支那オレンヂの祕密」の邦譯三册を、一軒ではアガサ・クリスチイの「ハゼルムウアの殺人事件」とカアメン・エデイングトンの「撮影所殺人事件」の二原書を買ひ求めた。
 夜食後、ストラヴンスキイの「火の鳥」を聽く。ストラヴンスキイ自身の指揮したものだが、これは新しく買つた内で一番出色のレコオドだ。「火の鳥」といふと、亡き小山内薫先生の事を思ひ浮べる。先生はこの舞踊曲を向うで聽かれ、その素晴さを話された事がある。そして、そのレコオドも買ひ歸られ、一度聽かして戴く約束をしながら、どういふ譯か自分はとうとうその折を持たなかつた。ニジンスキイの踊にもこれがあるが、先生は何しろこの音樂が非常にお好きだつたらしい。十時過ぎ「エジプト十字架の祕密」を讀みながら、體工合の不安な感じで早寢した。

 木曜日――。
 九時前起床。明方の發作今日も少し重くエフエドリンを服用したが、この四五日にない秋晴れの穩かな日で割に氣分がいい。間もなく煙草專賣局の本所工場觀覽招待に同行を約
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