だ。で、實際以上にすべては誇張されて映つて來た。そして、二人の結婚生活の幸福が當然お前の死に依つて破壞されてしまふのだと信じ切つてしまつたのだつた。
 病室へ這入ると、お前の母が老年の近い小皺の寄つた顏を土氣色にして、釣り上つたやうな眼でぢつとお前の顏を見詰めてゐる姿が、私の胸を衝いた。その母も、流石に兄も、私も、そして附添ふ若い一人の看護婦も、高い熱でさらさらに乾いた灰のやうなお前の顏色を見、夢中の口から洩れる呻き聲を聞いた時、お前の上に嚴かに死が迫らうとしてあるやうな豫感に打たれて、堅く口を噤んでしまつた。そして、消毒藥の何處となく漂ふ病室の中はお前の呻き聲に靜寂が破られるだけだつた。それに窓から見える病院の芝生の庭には一昨日のやうに、昨日のやうに、ぎらぎらした午後の太陽が照りつけ、處々に咲く松葉牡丹の花が陽炎の中に燃えるやうな紅を映してゐる、動く物一つない靜けさだ。
 私はむつと熱いいきれの鼻を打つお前の枕元に近附いて、時々痙攣するやうに動いてゐるお前の手を堅く執つた。丁度、死の爲めにもぎ去られて行かうとするお前を自分の手で守らうとするやうに‥‥‥。が、お前の掌はじつとりと汗ばみ、其處から傳はつてくる體熱はお前の體を燒き盡さうとでもするやうに強かつた。あつふあつふと生ら暖い吐息が私の顏に感じられた。お前の口は半分明け放たれ、齒並の奧に白苔の生えた舌が縺れてゐた。
『どうかして下さい。痛、痛つ‥‥‥』と、その時お前は顏を歪めて、敷布《シイツ》の上にのけぞりながら身もがきした。私は我知らず顏を反けずにはゐられなかつた。そんなお前のしどけない姿を、醜い澁面《グリメエス》を私は今まで見た事がなかつたのだ。そして、病氣がお前の日頃のつつましやかな、物靜かな、内氣な物ごしのすべてを毀してしまつた幻滅をふと感じた。實際、お前の訴へてゐる苦惱と、またお前の生死に對する不安とに殆ど意識を困迷させられてゐながら、どうしてそんな冷たい心の隙間が私の心に出來たか。とに角、掛布を速にお前の胸に覆ひながら、滑り落ちた氷嚢をお前の額に置きながら、さうしたお前を母や兄や看護婦達にまざまざしく見詰められる事が私には苦しかつた。
『お動きなすつてはいけません。もう少しで御座います。お體に障ります‥‥‥』と、同時に看護婦はお前の耳元に囁いた。
『痛、痛つ‥‥‥』と、お前はまた夢中で叫んで、敷布を撥ねのけた。
 手術前の體の消毒の爲めに運搬車が來て、一先づお前を消毒室へ運び去つて行つた時、急に呻き聲の消えた靜かな病室の中に、私は兄とお前の母と顏を見合せてぢつと押し默つてしまつた。お前の姿が眼の前から消え去つた事、それは私の心に或る幽かなゆとりを與へた。と同時に、今まで自分の胸にくるめいてゐた不安や焦燥や苦惱が人力以上の物に支配されてゐるお前の生死に對して、何等の力にも何等のたしにもなり得ないやうな心持になつた。なるやうにしかならないと云ふ宿命的な考へと、なるやうになつてしまへと云ふ或る輕い絶望の氣持が、私の胸を幽かに落ち着かせたのだつた。そして、また其處に兄の詞がさつき暗示したやうな希望が、萬が一と云ふ希望が遠くからだんだん明るく、力強く近附いてくるやうにも感じられた。
『平生丈夫だから、大丈夫なやうな氣もしますね‥‥‥』と、ふと私は兄を見上げて云つた。兄は窓際によつてぎらぎらと輝いてゐる夏空を見上げてゐたのだ。
『大丈夫だ‥‥‥』と、兄は力強く答へた。
 心痛と不安とで人心地もなかつた、お前の母は、その兄の詞を聞いて顏を和らげたやうだつた。が、そのままお前の身を案じるやうに消毒室の方へ出て行つた。
 と、其處へ手術室の準備を終つたらしい水島があわたゞしく這入つて來た。
『消毒が濟んだら直ぐに取り掛かるよ‥‥‥』と水島は云つた。愈※[#二の字点、1−2−22]だ――と云ふ衝撃《シヨツク》が私をぎくりとさせた。
『そりやあさうと手術には立ち會へまいか‥‥‥』と、私はお前一人を恐ろしい手術室に閉ぢ込められてしまふ不安を急に感じて云つた。
『さ、それは止めたが好い。そして、僕達を信じてゐてくれ給へ‥‥‥』と、水島は直ぐに遮つた。
『何故だ‥‥‥‥』
『一體病院の規定から云つてもそれは禁じてある。と云ふのは、手術と云ふものは、あんまり氣持の好いものぢやない。だから、可成り氣の強い人でも素人は平氣で見てはゐられない。大概腦貧血を起すか、目を※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]すかだ。ひどいのになると、穢い話だが嘔吐を催す。そんな事になると、手術以外に立會人の介抱で一騷ぎしなければならないからね‥‥‥』
『然う、僕にはそんな事はあるまい。是非立ち會はせてくれ‥‥‥‥』
『さ、それが、大抵の人がさう云ふんだ‥‥‥‥』
『だが、僕は爲事の點から云つても、それには少し慣れ
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