を感じながら呟いた。と、傍の助手の二人が顏を見合せながらにやりと微笑うて、私を見返つた。
『あるとも、一昨日なんか骨膜炎の手術を受けた老人がね、義太夫を唸り出す騷ぎだつたよ‥‥‥』と、水島は相變らず冷靜な顏附で云つた。そして、助手の一人が幽かな笑聲を立てたのを責めるやうにぢつと見詰めた。
『ほお‥‥‥』と、我知らず答へた時、私は總身の緊張感もほぐれたやうな、またお前の身に迫る次の危急な瞬間も忘れてしまつたやうな、その場合には餘にそぐはない心の弛みを感じて、水島の顏を見返した。が、水島は床に眼を落して、兩手を背中に組んだまま、靜に歩調を取つて窓際を往き來しながら振り向かうともしなかつた。と、急に私は、ひどく嚴肅に、ひどく重大に考へてゐた手術と云ふ事柄に對して、或る期待を裏切られたやうな拍子拔けの氣持を意識せずにはゐられなかつた。そして、何氣なく顏を上げて正面の壁を見詰めた時、其處に掛かつてゐる小形の角時計が四時七分を示してゐるのに氣附いた。私はひよいと或る空虚《うつろ》を心の中に意識せずにはゐられなかつた。
が、お前を載せた運搬車のゴム輪の軋りが[#「軋りが」は底本では「軌りが」]廊下に聞えた次の瞬間に、私の體はまた水を浴びせられたやうに戰いた。そして、その戰きを抑へながらぢつと不安の眼を見開いてゐる私の前に、白の手術著を著せられたお前は半ば意識を失つたまま手術臺の上に寢かされたのだつた。水島はお前の胸に一わたり聽診器を當てた。忽ちマスクがお前の顏を覆つた。と、一人の助手はコロロホルムの滴壜を持つた。二人の助手は左右からお前の手の脈搏を數へ出した。
『私について數を數へて下さい‥‥‥』と、滴壜を手にした助手は、命令するやうな句調でお前の耳元に囁いた。お前は幽かに頷いた。
『一‥‥‥』と、その助手が太い、バスの聲で叫んだ。
『一‥‥‥』と、お前は低い、けれどはつきりした聲で助手の聲を追つた。
『二‥‥‥』と、間を置いてまた助手が云つた。
『二‥‥‥』と、お前はそれに續けた。
水島は傍の置時計を見詰めながら、お前の聲に聽き入つてゐた。
私はもう身動きする事も許されないやうな氣持で窓際に佇んで、助手の間に見えるお前の顏に喰ひ込むやうな視線を投げてゐた。そして、抑へようとすればする程ぴくぴく顫へ出してくる脣を噛みながら、お前の、宛《まる》で穴の底から反響してくるとでも云ひたい、陰氣な餘韻を殘して行く数へ聲に引き寄せられて、二、三、四、五‥‥‥と口の中で追ひ續けてゐたのだつた。と、喘いでゐたお前の息は丁度臨終の迫つた病人のやうに和いで來、鎭まつて行き、段々に間遠になつて、時々深い吐息がお前の白い咽喉首を脹らました。同時に數へる聲も次第に力を失つて行き、明瞭さを薄くして、助手の力強いバスの聲の響が高まつて行くのとは反對に、數が十、十一と重なるにつれて弱くかまれて行くのだつた。
『ふつ‥‥‥』と、私は我知らず吐息づいて、その吐息を感じてひよいと振り向いた水島と視線をかち合はせた。水島の顏はまるで彫刻のやうに嚴かに、冷かに見えた。眼には私の胸に最高音のリズムを打つて蘇つて來た不安を、恐怖を見通すやうな鋭さがあつた。私は自分を胡魔化すやうに視線を反らした。と、その視線がまた左手を執つてゐた助手の背後にゐる看護婦長の、盛りを過ぎた女の、とろんと濁つた眼とぶつかつた。それをあわてて反らすと同時に、『十七‥‥‥』と、助手が叫んだ。
『十七‥‥‥』と、それに習つたお前の聲は、もうその時『ふうち‥‥‥』と呟いたやうに細く、ぼやけてゐた。
と、それに續いた靜けさの中に、遠くの空を流れて行く、何處とも知れない工場の鈍い汽笛が、私の耳を掠めて行つた。そして、それが私の意識をこぼれるやうにすつと外に誘つたかと思うと、同時に助手の聲が『十八‥‥‥』と、高く響いた。意識が小波を打つて輕く途惑つた。が、再びはつきりそれが手術室の中に歸つて、お前の習ふ聲を待ち構へた時、私はそれに代る自分の胸の動悸を聞いた。部屋はしんとなつた。動悸が急に高くなつたやうな氣がした。眼はお前の顏の上にす早く走つた。と、間もなく、お前は『十六‥‥‥』と呟やいた。水島は滴壜とマスクの上に支へた助手と、ひよいと顏を見合せた。
『|來たね《シユラアフ・ズヒテン》‥‥‥』と、水島は小聲で云つた。
『十九‥‥‥』と、助手は水島の詞に幽かに頷いて、急に力を込めた聲で數を讀んだ。
『十九‥‥‥』と、長い間を置いて、お前はやつと『九』が聞えるばかりのか細い聲で續けて、深い息を吸つた。
『脈《プルス》は‥‥‥』と、また水島はきらりと眼を光らせて囁いた。
『九十三《ドライ・ノインチツヒ》‥‥‥』と、お前の右手を支へてゐた助手が答へた。
私は窓際から我知らず一歩程體を前に進めて、その助手の傍に立つて、ぢつと
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