《りん》二|厘《りん》と、穴《あな》は小《ちひ》さな蜂《はち》の體《からだ》を隱《かく》すほどにだんだん深《ふか》く掘《ほ》られて行《い》つた。
「パパ。あの蜂《はち》何《なに》してるの」
と、息《いき》を凝《こ》らしてゐた夏繪《なつゑ》が低《ひく》く尋《たづ》ねかけた。
「うん、今《いま》あの穴《あな》の中《なか》へ子供《こども》を生《う》みつけるんだよ。」
と、夫《をつと》は何《なに》か胸《むね》を打《う》つものを感《かん》じながら小聲《こごゑ》に答《こた》へた。
全《まつた》くわき眼《め》も振《ふ》らないやうな蜂《はち》の動作《どうさ》は變《へん》に嚴肅《げんしゆく》にさへ見《み》えた。そして、瞬《またた》きもせずに見詰《みつ》めてゐる内《うち》に、夫《をつと》はその一|心《しん》さに何《なに》か嫉妬《しつと》に似《に》たやうなものを感《かん》じた。すぐ夫《をつと》は傍《そば》から松葉《まつば》を拾《ひろ》ひ上《あ》げて穴《あな》の中《なか》をつつ突《つ》いた。と、蜂《はち》はあわてて穴《あな》から出《で》て來《き》たが、忽《たちま》ち松葉《まつば》に向《むか》つて威嚇的《ゐかくてき》な素振《そぶり》を見《み》せた。
「あら、蜂《はち》が怒《おこ》つてよ」
と、夏繪《なつゑ》は恐《おそ》れるやうに囁《ささや》いて夫《をつと》の手《て》を抑《おさ》へた。
が、惡戯《いたづら》氣分《きぶん》になつて、夫《をつと》は手《て》を引《ひ》かなかつた。そして、なほも蜂《はち》の體《からだ》につつ突《つ》きかかると、すぐ嘴《くちばし》が松葉《まつば》に噛《か》みついた。不思議《ふしぎ》にあたりが靜《しづ》かだつた。が、やがて不意《ふい》に松葉《まつば》から離《はな》れると蜂《はち》はぶんと飛《と》び上《あが》つた。三|人《にん》ははつとどよめいた。けれども、蜂《はち》は大事《だいじ》な犧牲《ぎせい》の蜘蛛《くも》の死骸《しがい》を警戒《けいかい》しに行《い》つたのだつた。で、その存在《そんざい》をたしかめると、安心《あんしん》したやうにまたすぐ穴《あな》の所《ところ》へ飛《と》び降《お》りて來《き》た。
「パパ、また穴《あな》を掘《ほ》るよ」
と、しやがんで膝《ひざ》にぢつと兩手《りやうて》をついたまま、敏樹《としき》が何《なに》か恐《おそ》れるやうな聲《こゑ》で囁《ささや》いた。
穴《あな》はもう殆《ほとん》ど蜂《はち》の體《からだ》のすべてを隱《かく》すやうな深《ふか》さになつてゐた。が、蜂《はち》はまだその劇《はげ》しい勞働《らうどう》を休《やす》めなかつた。そして、その間《あひだ》にも絶《た》えず三|人《にん》の樣子《やうす》を警戒《けいかい》し、なほも二三|度《ど》蜘蛛《くも》の死骸《しがい》の存在《そんざい》をたしかめに行《い》つた。
(本能《ほんのう》、これがただ本能《ほんのう》だけで出來《でき》ることか知《し》ら?)
その眞劍《しんけん》さに打《う》たれて、夫《をつと》はそんな事《こと》を考《かんが》へつづけながら、ぢつと瞳《ひとみ》を凝《こ》らしてゐた。
體《からだ》が穴《あな》の中《なか》にすつかり見《み》えなくなるほどの深《ふか》さになると、蜂《はち》はやがてほつとしたやうにそとへ出《で》て來《き》た。そして、なほも警戒《けいかい》するやうに念《ねん》を入《い》れるやうに穴《あな》のまはりを歩《ある》きまはつてゐたが、やがてひよいと飛《と》び上《あが》ると、蜘蛛《くも》の死骸《しがい》をくはへて再《ふたた》び穴《あな》の所《ところ》へ舞《ま》ひもどつて來《き》た。
「まア、あの蜘蛛《くも》どうしたの? 死《し》んぢやつてるのね?」
「うん、蜂《はち》に殺《ころ》されたんだよ。そして、あれが蜂《はち》の子供《こども》の御飯《ごはん》になるんだよ」
「御飯《ごはん》に?」
「うん、だから見《み》てて御覽《ごらん》。今《いま》にあの穴《あな》の中《なか》へちやんとおしまひするから‥‥」
「蜘蛛《くも》なんておいしくないね、パパ‥‥」
敏樹《としき》が上《うは》ずつた聲《こゑ》を挾《はさ》んだ。
「でも、蜂《はち》の子供《こども》には御馳走《ごちさう》なんだよ」
穴《あな》の二三|寸《ずん》手前《てまへ》に降《お》りた蜂《はち》は、やがて頭《あたま》と前脚《まへあし》で蜘蛛《くも》の死骸《しがい》を穴《あな》の深《ふか》みへ押《お》して行《い》つた。そして、それを押《お》し入《い》れきつてしまふと、蜂《はち》は今度《こんど》は逆《ぎやく》にあとずさりしながら、自分《じぶん》の尻《しり》の方《はう》を穴《あな》の中《なか》へ差《さ》し込《こ》んだ。と同時《どうじ》に、穴《あな》のそとに出《で》た頭《あたま》と前半身《ぜんはんしん》が不思議《ふしぎ》な顫動《せんどう》を起《おこ》しはじめた。
「まア、をかしい、何《なに》してるの?」
と、夏繪《なつゑ》が頓狂《とんきやう》な聲《こゑ》を立《た》てた。
「しつ、穴《あな》の中《なか》へ卵《たまご》を生《う》みつけてゐるんだよ。そしてね、來年《らいねん》の春《はる》になつて卵《たまご》がかへると蜘蛛《くも》が蜂《はち》の子供《こども》の御飯《ごはん》になるのさ」
と、話《はな》し聞《き》かせてゐる内《うち》に、夫《をつと》の頭《あたま》の中《なか》には二三|日《にち》前《まへ》の妻《つま》との對話《たいわ》が不意《ふい》に思《おも》ひ浮《うか》んで來《き》た。夫《をつと》は我《われ》知《し》らず苦笑《くせう》した。蜂《はち》の眞劍《しんけん》さが、その子供《こども》に對《たい》する用意周到《よういしうたう》さが何《なに》か皮肉《ひにく》に胸《むね》に呼《よ》びかけてゐるやうな氣持《きもち》だつた。
不思議《ふしぎ》な顫動《せんどう》が何《なに》か必死的《ひつしてき》な感《かん》じで二三|分間《ぷんかん》つづくと、蜂《はち》はやがて穴《あな》のそとへ出《で》て來《き》た。そして、ちよつと息《いき》を入《い》れたやうな樣子《やうす》をすると、今度《こんど》はまた頭《あたま》と前脚《まへあし》を盛《さかん》に動《うご》かしながら掘《ほ》り返《かへ》した土《つち》で穴《あな》を埋《う》め出《だ》した。而《しか》も、幼蟲《えうちう》が出易《でやす》くするためであらう、蜂《はち》は明《あきらか》にこまかい土《つち》の選擇《せんたく》に氣《き》を附《つ》けてゐるらしかつた。さうして穴《あな》がすつかり埋《う》められてしまふと、蜂《はち》は暫《しばら》く穴《あな》のまはりを歩《ある》きまはつてゐたが、やがてぷうんと翅音《はおと》を立《た》てながら、黒黄斑《くろきまだら》の弧線《こせん》を清澄《せいちよう》な秋《あき》の空間《くうかん》に描《ゑが》きつつどこともなく飛《と》び去《さ》つて行《い》つた。
「はつはつは、パパは馬鹿《ばか》だな、ほんとにパパは馬鹿《ばか》だな」
と、立《た》ち上《あが》りざま、夫《をつと》は高《たか》い笑聲《わらひごゑ》とともに不意《ふい》に無意識《むいしき》にそんな事《こと》を呟《つぶや》いた。そして、兩方《りやうはう》の手《て》で夏繪《なつゑ》と敏樹《としき》を自分《じぶん》の體《からだ》の方《はう》へ引《ひ》き締《し》めるやうにしながら、庭《には》の樹《き》の間《あひだ》をアトリエの方《はう》へ歩《ある》き出《だ》した。
底本:「新進傑作小説全集14 南部修太郎集・石濱金作集」平凡社
1930(昭和5)年2月10日発行
入力:小林徹
校正:伊藤時也
2000年8月7日公開
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