はひつそりとなつてしまつた。
「誰がゐるんだらうか?」と、私は心の中にこはごは呟いた。と、刹那に或る人から聞かされてゐた西洋の「美人局《ブラツク・メリイ》」の話が不意に頭の中に閃いた。私はぎくりとした。
 やがて私はそつと椅子から立ち上つた。そして、女のはいつて行つた扉の方へあるきかけた。が、ぎしりと床にきしつた自分の靴音を感じると、足はそのまますくんでしまつた。動氣が高まつて來た。神經が針のやうに尖がつて來た。私は體の動きに迷ひながら、入口の扉の方をぢつと眺めてゐた。
 が、間もなかつた。よろめくやうな足音が再び聞えたのにはつとして振り返ると、隣の部屋の扉が靜にあいて、その陰に瀬戸火鉢を抱へた女の姿が現れた。火鉢の中には今燃やしつけたばかりらしい木片がけぶつてゐた。瀬戸火鉢と西洋婦人と、それは如何にも奇妙な、同時に如何にも貧乏くさい感じを與へる對照だつた。張り切つてゐた氣持はふと弛んだ。そして、私は怪訝の眼を女の姿に投げかけた。と、女は何故か憚るやうにあわてて扉を締めて、置いた火鉢を抱へ直すとけむつぽい顏を横に曲げながら、私の側に近寄つて來た。
「たいへん、寒い……」と、てれ隱すやうに日本語を呟いて、女は硬張《こはば》つた作り笑ひをその澤《つや》のない顏に浮べた。そして、私の前に引き寄せた椅子の上に火鉢を降すと、それを挾んで私と向ひ合せに腰を降した。
 私は塵の浮いたテエブルの面に眼を落したまま、身動きもせずに默りこんでゐた。が、さうした故意とらしい女の仕草が油斷を作らせるためではないか知らと思ふと、私は警戒の氣持を弛める譯にはいかなかつた。互にこだはり合つた、ぎごちない沈默が續いた。と、やがて女はかざしてゐた手の指先で火鉢の縁をこつこつ彈き始めたが、暫くしてひよいと顏を上げながら、
「外套をおぬぎなさいな……」と、變に調子のもつれた聲で囁いた。
 それには答へずに、私は探るやうに女の顏を見詰め返したが、何時の間にかそれは化粧し直されてゐた。そして、痩せてこそゐるが、人の好きさうな、小作りな顏に、素人らしい臆病さで媚びるやうに見開かれてゐる二つの眼には[#「眼には」は底本では「眼にば」]、何の邪惡の影も見えなかつた。火ぼこりをかぶつた髪、紅の曇つた唇、上着の間からのぞいた粗い襟足、よごれのついた更紗の上着、毛のすりきれた茶羅紗のスカアト――若い異性らしい魅力を喪つ
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