が込み上げて來た。
「來なければよかつたなあ……」と、心の中に呟いて、横に顏を反け反けしながら、私は重くなつた足を引きずるやうに昇つて行つた。
一階、二階、人が住んでゐるのかゐないのか、息詰まるやうな靜けさを包んだ、安普請の洋館だつた。處處に落書のある、よごれた白壁、或る窓の毀れた硝子のあとには新聞紙を貼つてあつたりした。階段は足をひそめても無氣味な軋り[#「軋り」は底本では「軌り」]聲を立て、泥や小砂利にざらついてゐた。そして、眞夜中過ぎの劇しい寒さにこごえたやうな電燈の光の薄暗さ、刹那の不快さは、何時の間にか恐怖の念に變つて來た。が、女は默りこくつたまま涯《はてし》ない階段を昇りでもするやうに、振り向きもせずに一段、一段を辿つて行くのであつた。二階、三階、それが最上層の四階目の階段を登りきつた時、女は苦しさうに吐息づいて立ち止まつた。そして、女はかぶつてゐた肩掛を靜に取りのぞけながら、小聲に云つた。
「其處よ……」
頷いて、薄暗い明りの下ながら、私はその刹那に初めて女の顏を眞面《まとも》に見詰めた。赤茶けた、澤《つや》のない、ばさばさ髪、高い頬骨、肩掛をはづした女の顏は見違へる程痩せてゐた。そして、夜眼にはただ白くばかり見えてゐた拙い化粧の下に、そばかすが一杯に浮いてゐた。年は二十六七なのであらう。明りに照り反された、黒くたるんだ瞼の陰にありありと羞恥の色を見せながら、まぶしさうに私を見詰めた眼は深く凹んで、その奧には生活に疲れきつてゐるやうな暗い影が差してゐた。私は思はず顏をそむけた。そして、幻影消滅の苦苦しさに打たれながら、引き摺られて來た今までの自分の姿の淺ましさを感じながら、暫く身動きもせずにその場に佇んでゐた。
「さあ、おはいり下さいな……」と、女は小聲に私をうながした。そして、右手の直ぐとつつきの部屋の扉の前に歩み寄つて、ハンドルに手を掛けた。
「其處かね。――君の家は……」と、私は氣拙さをてれ隱すやうに尋ねかけた。
「ええ……」と、女は低く頷いた。
然し、私ははいる氣込をすつかり喪つてしまつた。そして、むつつり口噤みながら、女の顏を眺めてゐた。
「まあ、どうなすつたんですか?」と、女は氣遣はしさうに云つた。
私はふつと溜息づいた。そして、女からそむけた視線をそのままにぐるりとあたりを見まはした。遁れる事、思ひ切つて階段を駈け降りてしまふ事、
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