傳はつてくる氣持なんてないんだ。とに角狐につままれたと云ふにしても、話があんまりうま過ぎるぢやないか。
『今夜はどうしたんです。』
と、僕が聞くと、なんでも今はその濠端の或る華族の家へ、臨時の奥女中とかに雇はれてゐるのださうで、その晩はちよつと自分の家まで行つた歸りがけだつたんだね。そしてわざわざ自分の名前と、その雇はれてる家の電話番號まで教へて、用があつたら掛けろつてまで云ふのさ。驚いてしまつたよ。何しろ、あんな大膽――さう云ふのかな、大膽な女に會つたのはそれこそ生れて初めてなんだからね……」
「よくその晩、連れ出さうと云ふ氣にならなかつたね。」
と、Yが少しからかふやうな調子で云ひました。
「まさか、さうも行かないさ。此方が何しろ弱味なんだからね。それに僕としては體面もあるから、さう馬鹿なことも出來ないよ。さうさう、それから君、話の最中に自分の指輪を僕に遣らうとまで云ひ出したんだぜ。僕にはよくは分らないが、きらきら光る寶石入りで、それが安い物でなかつたことだけは確だ。然し、其處まで圖圖しくは流石になれなかつた。そして指輪は強ひて返したが、見も知らない他人の僕に對して、どうしてそんなことが出來るものか、分らないのは女の心持さ。そしてその晩は女がその家の門を這入るのまで見屆けて別れたんだ。」
「御苦勞樣だね……」
と、Mは笑ひ出しました。
「まあ、もう少し聞き給へ。それから四五日經つてから、無論半信半疑で、その家へ電話を掛けると、間違ひもなくその女が出て來たんだ。で、その時打ち合せをして、或る處で出會ふ約束をしたんだ。その翌日だ。まさか來てやしまいとは思つたが、其處は欲目で行つて見ると、案の定ゐなかつた。さあ、さうなると、此方は未練があるだけに口惜しい、殘り惜しさが身を責める。堪《たま》らなくなつて、また五六日目かに電話を掛けると、もう二三日前に暇を取つて下がったと云ふんだつた。がつかりしたよ。さうならさうで、女の家を聞いて置けばよかつたが、跡の祭さ。だが、全く皆《みんな》に見せてやりたいやうな、垢抜けのした、charming な女だつたよ……」
さう、最後の詞を途切ると、S中尉は如何にも口惜しさうに溜息をして、口を噤んでしまひました。
私は彼の性格や、生活をよく知つてゐました。郷里に貧しい兩親を殘してゐる彼の生活は決して華かな、樂しいものではありませんでした。そして女なんかに縁のなささうな、忌憚なく云へば、戀の出來るやうな型の男ではなかつたのです。勿論、戀の出來ると云ふことが人間にとつて、それ程重大な事柄ではありますまい。然し、彼が時時私に打ち明けた内心の寂しさや、よそ眼にもそれと知れる心の焦燥は、頭の單純な男だけに、一面は其處にあつたと言はねばなりますまい。何しろ若い generation にとつては、それが心の滿足と、慰藉[#底本では「慰籍」の誤り]の、見方によつては重要な部分になると云ふことは、少くとも確な事實でせうから……。
「面白い話だ……」
と、叫んだのはYです。
「だが、其處でぽつんと糸のやうに切れた處が、極めて意味深長で好い……」
と、にやにや笑ひながら云つたのはMでした。
「意味深長かも知れないさ……然し僕にはこれが生れて初めての、オンリイ一つの戀物語と云へば戀物語だ。若い時の思ひ出にこれを大事にしまつて置くよ。僕はとてももう一生女に惚れられさうな男ぢやあないからね。」
と、S中尉はやがて諦めたやうに云つて、寂しく笑ひました。
面白がつて聞いてゐた三人も私も、ふいと下を向いて口を噤んでしまひました。そして、暫く變にあらたまつた沈默を續けました。
勿論、その時の皆《みんな》は、S中尉のプウアな戀物語を暗に嘲笑してゐたのではなかつたでせう。また、必ずしも自分自らがたつた今打ち明けた、銘銘の戀愛の經驗と云ふものをS中尉のそれに較べて、それ程誇るに足るだけの幸福とも亦、愉悦であつたとも感じてはゐなかつたに違ひありません。寧ろ或る者は、S中尉の卒直な、飾りつ氣のない物語を聞いて、若しさうだつたとすれば、少くとも自分が自らの戀物語に對して加へた、故意の潤色や、或は假構の美化を内心恥ぢたいやうな氣がしたかも知れません。が、それよりもS中尉の前に影のやうに現れて、影のやうに消えた女のことを考へて見ると、それぞれの戀の對象で嘗ては夢中になつて戀してゐた自分の女の行手が、頼りなく、寧ろ皮肉られるやうな心でふいと想像されたのではなかつたでせうか、女にとつては機縁さへあれば、男から男へと無反省に流轉して行くのはなんでもありますまいから。けれど要するに自分のそれも、S中尉のそれも、結局は大きな圓周上の一點に歸してしまふやうな、人生の極めて些細な、無意味な一茶飮事に過ぎないものだと云ふことに、氣が附いたのかも知れません。そして、ひよいと其處に湧いた空虚の感じと、寂しさの意識が、皆《みんな》の奥底にある果敢ない氣持を起させたことだらうと思ひます。で、皆《みんな》の顏色からそんなことを讀み取つたばかりでなく、實は私もそんな氣持がしたのです。
「すべてが運命の惡戯《いたづら》……」
その瞬間、五人が五人ともぢつと沈默したまま、そんなことをしみじみ思ひ浮べてゐるやうに見えました。
「然し考へて見ると、戀愛なんて結局つまらないものだ。」
と、Yは言はずにはゐられないと云つたやうな樣子で、いきなりその重い沈默を破つてしまひました。が、皆《みんな》はそれに答へようともしないで、やつぱり沈默を續けてゐました。
「だがねえ、君、僕の場合に於てさ、その時の女の心持つて一體どう云ふのだらう。どう考へても、わけが分らないんだ……」
暫くうつむいて考へ込んでゐたS中尉は、やがて思ひ出したやうに身を起すと、どうしても解けない謎を持ちあぐんだやうにかう云ひました。
「そりやあ君、分つてゐるさ。女は屹度月經期だつたに違ひないよ……」
と、Mは苦もない調子で、はつきりと云つてのけてしまひました。
S中尉は幽かに苦笑しました。座は明かに白け渡りました。皆《みんな》の興味が戀愛問題を離れてしまつたのは、云ふまでもありません。
丁度十二時少し前でした。
(七年一月作)
底本:新進作家叢書22「修道院の秋」新潮社
1918(大正7)年9月6日初版発行
1922(大正11)年8月15日13版
入力:小林徹
校正:伊藤時也
1999年11月29日公開
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