、大久保初男の二氏を、この編輯業につけられ、※[#「てへん+交」、第4水準2−13−7]字寫字は、おほかたこの二氏の手に成れり。さて、初稿成れりし後も、常に訂正に從事して、その再訂の功を終へたるは、實に明治十九年三月二十三日なりき。
さて、局長西村君は、前年轉任せられ、おのれも、十九年十一月に、第一高等中學校教諭、古事類苑編纂委員などに移りて、本書出版の消息なども、聞く所あらず。ひとゝせ故文部大臣森有禮君の第に饗宴ありし時、おのれも招かれて、宴過ぎて後に、辻新次君と鼎坐して話しあへるをりにも、「君が多年苦心せる辭書、出版せばや、」など、大臣、親しく言ひいでられつる事もありしが、編輯の拙き、出版にたへずとにや、或は資金の出所なしとにや、その事も止みぬ。かくて、稿本は、文部省中にて、久しく物集高見君が許に管せらるときゝしが、いかにかなるらむ。はて/\は、いたづらに紙魚のすみかともなりなむなど、思ひいでぬ日とてもあらざりしに、明治二十一年十月にいたりて、時の編輯局長伊澤修二君、命を傳へられて、自費をもて刊行せむには、本書稿本全部下賜せらるべしとなり、まことに望外の命をうけたまはりて、恩典、枯骨に肉するおもひあり、すなはち、私財をかきあつめて資本をそなへ、富田鐵之助君、及び同郷なる木村信卿君、大野清敬君の賛成もありて、いよ/\心を強うし、踊躍して恩命を拜しぬ。かくて、編緝局の命にて、かならず全部の刊行をはたすべし、刊行の工事は同局の工塲に托すべし、篇首に、本書は、おのれ文部省奉職中編纂のものたることを明記すべし、そこばくの獻本すべし、などいふ約束を受けて、十月二十六日、稿本を下賜せられ、やがて、同じ工塲にて、私版として刊行することとはなりぬ。
刊行のはじめ、中田大久保の二氏、閑散なりしかば、家にやどして、活字の※[#「てへん+交」、第4水準2−13−7]正せむことを托しぬ。稿本も、はじめは、初稿のまゝにて、たゞちに活字に付せむの心にて、本文のはじめなる數頁は、實にそのごとくしたりしが、數年前の舊稿、今にいたりて仔細に見もてゆけば、あかぬ所のみ多く出できて、かさねて稿本を訂正する事とし、※[#「てへん+交」、第4水準2−13−7]訂塗抹すれば、二氏淨書してたゞちに活字に付し、活字は、初より二回の※[#「てへん+交」、第4水準2−13−7]正とさだめたれば、一版面、三人して、六回の※[#「てへん+交」、第4水準2−13−7]正とはなりぬ。かくてより、今年の落成にいたるまで、二年半の歳月は、世のまじらひをも絶ちて、晝となく夜となく、たゞこの訂正※[#「てへん+交」、第4水準2−13−7]合にのみ打ちかゝりて、更に他事をかへりみず。さてまた、篇中の體裁も、注釋文も、初稿とは大に面目をあらためぬ。
本書刊行のはじめに、編輯局工塲と約して、全部、明年九月に完結せしめむと豫算したり。又、書林は、舊知なる小林新兵衞、牧野善兵衞、三木佐助の三氏に發賣の事を托せしに、豫約發賣の方法よからむとすゝめらるゝにしたがひて、全部を四册にわかちて、第壹册は三月、第二册は五月、第三册は七月、第四册は九月中に發行せむと假定しぬ。さるに、此事業、いかなる運にか、初より終まで、つねに障礙にのみあひて、ひとつも豫算のごとくなることあたはず、遂に完結までに、二年半をつひやせり、今、左にその障礙のいちじるきものをしるさむ。
明治二十二年三月にいたりて、編輯局の工塲を、假に印刷局につけられたるよしにて、その事務引きつぎのためにとて、數十日間、工事の中止にあひ、さて、二十三年三月にいたりて、編輯局の工塲は、終にまたく廢せられぬ。これより後は、一私人として、さらに印刷局に願ひいでずてはかなはず、その出願には、規則の手續を要せらるゝ事ありて、豫算にたがへる事もおこりしかば、編輯局にうれへまうす事どもありしかど、今はせむかたなしとて郤けられぬ、稿本下賜の恩命もあれば、しひて違約の愁訴もしかねて、それより、家兄修二、佐久間貞一君、益田孝君などの周旋を得て、とかくの手つゞきして、からうじて再着手とはなれり、此の間も、中止せられぬること、六十餘日に及びぬ。又、この前後、公用刊行の物輻湊する時は、おのれが工事は、さしおかれたる事もしば/\なりき。かく、數度の障礙にはあひつれど、この工事を他の工塲に托せむの心は起らざりき、さるは、同局の工事は、いふまでもなき事ながら、植字に※[#「てへん+交」、第4水準2−13−7]正に、謹嚴精良なる事、麻姑を雇ひて癢處を掻くが如く、また他にあるべくもあらざればなり、見む人、本書を開きて目止めよかし。さてまた、本書植字の事、原稿の上にては、さまでとも思はざりしが、さて着手となりてみれば、假名の活字は、異體別調のものなれば、寸法一々同じからず、その外、くさ/″\の符號など、全版面に、およそ七十餘とほりのつかひわけあり、植字※[#「てへん+交」、第4水準2−13−7]正のわづらはしきこと、熟練のうへにてもはかどらず、いかに促せどもすゝまず。又、辭書のことなれば、母型に無き難字の、思ひのほかに出できて、木刻の新調にいとまをつひやせる事、甚だ多し。およそ、これらの事、豫算には思ひもまうけぬ事どもにて、すべて遲延の事由とはなりぬ。又※[#「てへん+交」、第4水準2−13−7]正者中田邦行氏、腦充血にて、二十二年六月に失せられぬ、本書の業につきては、その初より、大久保氏とともに、助力おほかたならず、多年、篇中の文字符號に熟練せる人を失ひて、いと/\こうじぬ。また、去年の春、流行性感冐行はれ、年の末より今年にかけて、ふたゝび行はれ、おのれも、※[#「てへん+交」、第4水準2−13−7]正者も、植字工も、この前後再度の流行に、數日間倒れぬ。また、去年の十月、おのが家、壁隣の火に遇へり。また、※[#「てへん+交」、第4水準2−13−7]正者大久保初男氏、その十一月、徳島縣中學校教員に赴任せられて、たのめる一臂を失ひていよ/\こうじぬ、およそこれらの事、皆此書の遭厄なり。これより後は、先人の舊門なる文傳正興氏に托して、※[#「てへん+交」、第4水準2−13−7]正の事を擔任せしめぬ。
遭厄の中に、もとも堪へがたく、又成功の期にちかづきて、大にこの業をさまたげつるは、おのれが妻と子との失せつる事なりけり。爰には不用にもあり、くだ/\しうもあれど、おのれの身に取りては、この書の刊行中の災厄とて、もとも後の思ひでとならむ事なるべければ、人の見る目にも恥ぢず記しつけおかむとす。去々年十一月に生れたるおのが次女の「ゑみ」といへる、生れてよりいとすこやかなりしが、去年十月のはつかばかりより、感冐して、後に結核性腦膜炎とはなれり。醫高松氏が病院に、妻小婢(いそ)と共に托せしに、病性よからずして心をなやましぬ。朝夕に行きては、いたはしき顏をまもり、歸りては筆を執れども、心も心ならず。十一月十六日の、まだ宵のまに、まさに原稿の「ゆ」の部を訂正して、箏のおし手の「ゆしあんずるに」ゆのねふかうすましたり」などいふ條を推考せるをりに、小婢、病院よりはせかへりきて、家に入りて、物をもいはずそのまゝ打伏し聲立てゝ泣く、病の危篤なるを告ぐるなり、筆をなげうち、蹶起してはしりゆけば、煩悶しつゝやがて事切れぬ。泣く/\屍をいだきて家にかへり、床に安して、さて、しめやかに青き燈の下に、勉めてふたゝび机に就けば、稿本は開きて故の如し、見れば、源氏の物語、若菜の卷、「さりとも、琴ばかりは彈き取り給ひつらむ、云云、晝はいと人しげく、なほ、ひとたびもゆしあんずるいとまも、心あわたゞしければ、夜々なむしづかに、」云云、「ゆ」は「搖ること」なり、「あんずる」は「按ずる」にて、「左手にて絃を搖り押す」なり、又、紅葉の賀の卷、「箏の琴は、云云、いとうつくしう彈き給ふ、ちひさき御程に、さしやりてゆし給ふ御手つき、いとうつくしければ、」おのれが思ひなしにや、讀むにえたへで机おしやりぬ、この夜一夜、おのれが胸は、ゆしあんぜられて夢を結ばず。「死にし子、顏、よかりき」をんな子のためには、親、をさなくなりぬべし、」など、紀氏の書きのこされたりつるを、さみし思へることもありしが、今は、我身の上なり、宜なり、など思ひなりぬ。この小兒の病に心を痛めつるにや、打ちつづきて、家のうちに、母にておはする人をはじめとして、病に臥すもの、五人におよびぬ。妻なる「いよ」なげきのなかにも、ひとり、かひ/″\しく人々の看病してありしが、妻も、遂にこの月のすゑつかたより病に臥しぬ。初は、何の病ともみとめかねたるに、數日の後、膓窒扶斯なりとの診斷をきゝて、おどろきて、本郷なる大學病院に移して、また、晝に夜にゆきかよひて病をみ、病のひまをうかゞひては、歸へりて※[#「てへん+交」、第4水準2−13−7]訂の業に就けども、心はこゝにあらず、洋醫「ベルツ」氏も心をつくされけれど、遂に十二月廿一日に三十歳にてはかなくなりぬ。いかなる故にてか、かゝる病にはかゝりつらむ、年頃善く母に事へ我に事へ、この頃の我が辛勤を察して、よそながら、いたく心をいため、はた、家政の苦慮を我におよぼすまじと、ひとり思をなやましてまかなひつゝありける状なりしに、子のなげきをさへ添へつれば、それら、やう/\身の衰弱の種とはなりつらむ、さては、子の失せつるも、衰弱せる母の乳にやもとゐしつらむ、あゝ、今の苦境も後にいつか笑ひつゝ語らはむ、などかたらひたりしに、今はそのかひなし。半生にして伉儷を喪ひ、重なるなげきに、この前後數日は、筆執る力も出でず、強ひて稿本に向かへば、あなにく、「ろ」の部「ろめい」(露命)などいふ語に出であふぞ袖の露なる、卷を掩ひて寢に就けば、角枕はまた粲たり。そも、かゝるめゝしくをぢなき心を、こと/″\しう書いつけおかむは、人わらはれなるわざにて、はぢがましきかぎりなれど、この頃の筆硯の苦、人情の苦に、窮措大が嚢中の苦さへ、湊合しつる事なれば、後にこの書を見むごとに、おのれひとりが思ひやりにせむとてなり、讀まむ人は、あはれとも見ゆるし給へや。
本篇刊行の久しき年月のうちに、おもひまうけぬ災害の並び臻れること、上にいへるがごとくなれど、誰人かおのれが心事をおしはかりえむ。されば豫約せし人々は、もとより内情を知らるべきならねば、いつも、きびしく遲延をうながされて、發行書林の店頭には、毎回の督責状、うづだかきまでになりぬ、書林は又おのれを責めぬ、そが督責状なりとて持てくるをみれば、文面もさま/″\にて、をかしきもあるがなかに、「大虚槻(おほうそつき)先生の食言海」などしるしつけられつるもありき。おのれは、まさしく約束をたがへぬ、ひとへに謝するところなり、計畫のいたらざりしは、身を恨むる外あるべからず。そも/\、初より、豫約といふ事せしこと、かへす/″\もあやまりなりき、豫約だにせざりせば、かゝるあざけりにあふこともあらじを、など悔ゆれどもせんなし。されど、責めらるゝつらさに、夜もふくるまで筆は執りつ、責めらるゝくるしさに、及ぶかぎりは、印刷の方にも迫りつ、それだにかく後れたり、責められざらましかばいかにかあらまし、など思へば、豫約せしことも、僥倖なりきとも思ひなしぬ。さて、内外の苦情は、身ひとつにあつまりきて、陳謝に陳謝をかさねて、遁るべき道なくなりつ、又、ふたとせあまりがほどの坐食に、※[#「擔」の「てへん」に代えて「にんべん」、第3水準1−14−44]石の儲なきにも至りつ、今はせむすべなくて、さては、篇中、およそ七八分より末は、いそぎにいそぎて、十分なる重訂もえせられず、不用なるめりと思はるゝ語、又は、註に引ける例語のふたつみつあるなどは、愛を割きてけづりて、(篇首の數頁は、初稿のまゝなり、篇末、又かくのごとし、されば、前後の詳略の、釣りあはぬところも、又、符號などのそろはぬ所も出できつらむ、)ひとへに、完結の一日もはやからむことをのみ期しぬ。されば、初には、附録として、語法指南、字音假名づかひ、名乘字のよみ、地名苗字などの讀みがたきもの、和字、譌字、又は、諺、など添へむの
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