あれ、大槻のなにがしといふ、この人、雜駁なる學問なるが、本邦の語學は、よくしらべてあるやうなり、かねて一大事業をまかせてより、今ははや十年に近きに、なほ、倦まずして打ちかゝりてあり、強情なる士にこそ」と、話されぬと、井上君入局して後に、ゆくりなくおのれに語られぬ。おのれ、この話を聞きて、局長の意中も、さては、と感激し、また、その「強情をとこ」の月旦は、おのれが立てつるすぢを洞見せられたりけり、「人の己を知らざるを憂へず」の格言もこれなりなど思ひて、うれしといふもあまりありき。げにや、そのかみの官衙のありさまは、※[#「倏」の「犬」に代えて「火」、第4水準2−1−57]忽に變遷する事ありて、局も人も事業も、十年の久しきに繼續せしは、希有なる事にて、おのれがこの業は、都下※[#「執/れっか」、二−20]閙の市街のあひだにありて、十年の間、火災に燒けのこりたらむがごとき思ひありき。そも、この業の成れるは、おのれが強情などいはむはおふけなし、ひとへに、局長が心のよせひとつに成りつるなりけり、西村君は、實にこの辭書成功の保護者(Patron.)とや言はまし。
そのかみは、官途も、今のごとくにはあらず、奉承榮達の道も、今よりは、たはやすかりきとおぼゆ、同僚は、時めきて遷れるも多し、おのれに親しく榮轉を勸めたりし人さへも、ひとりふたりにはあらざりき、されど、かゝる事にて心の動く時は、つねに王父の遺誡を瞑目一思しぬ。明治十一年六月、おのが父にておはする人、七十八歳にして身まかられぬ、老い給ひての上の天然の事とはいへ、いまさらの事にて、哀しきことかぎりなし、今よりは、難義の教を受けむこともかなはずと思へば心ぼそし、辭書の成稿を見せまゐらせむの心ありしかども、そのかひもなし。この後幾ほどなき事なりき、同郷なる富田鐵之助君、龍動に在勤せられて、「來遊せよかし、おのれ、いかにもして扶持せむ、」など、厚意もて言ひおこせられたり。君の我を愛せらるゝこと、今にはじめぬ事ながらと、感喜踊躍して、さて思へらく、かゝる機會は多く得べからず、父の養ひはすでに終へつ、おのれは次子なり、家兄は存せり、家の祀、母のやしなひ、托すべき人あり、また妻もなく子もなし、幾年にてもあれ、海外に遊びてあられむ程はあらむ、いづこにも青山あらむ、海外にて死にもせむ、さらば、この土に、何をか一事業をとどめてゆかむ、その業は、す
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