、この先の御用にも差支える。一応事情は申し述べる。その上にて、その方、金三郎様の御宿を致すのが迷惑と存ずるなら、遠慮なく申出でよ。早速我等は他に転宿致す。東中島の児島屋勘八、あの店の方が居心が好いように思われるで」
「どう致しまして、まず、まず」

       三

 浪人小笠原金三郎、同じく駒越|左内《さない》、医師|奥野《おくの》俊良、これだけが半田屋九兵衛方に当分宿泊となった。主人はもう有頂天で、三人を福の神扱いにした歓待ぶり。別して金三郎には、離れの隠居所を寝室に宛てがって、一人娘のお綾《あや》が侍女代りに付き切りであった。
「大変な事になって来た。今に九兵衛は帯刀御免、御褒美の金はどれくらいであろうか。イヤ一時に千両二千両頂くよりも、何か物産一手捌きの御役目でも仰せつけられた方が、得分が多かろうで」とまるで夢中。
「まァ一体、どうした事で御座りまする」
 妻のお幸《こう》は煙に巻かれてばかりはいなかった。
「他聞は憚る一大事じゃが、しかし女房は一心同体。おぬしにだけなら話しても好かろう。これ、びっくりしてはならぬぞ。隠居所の御客人はアレこそ当国の太守、少将様の御落胤、奥方様御付きの御腰元|鶴江《つるえ》というのに御手が付いて、どうやら妊娠と心づき、目立たぬ間にと御暇《おいとま》を賜わった。そこで鶴江殿は産れ故郷の播州《ばんしゅう》姫路《ひめじ》に立帰り、そのまま縁付いたのが本多家の御家来小笠原|兵右衛門《ひょうえもん》。この人は余程お人好しと見えて、何も知らずに鶴江殿を嫁に貰ったのか、但しは万事心得ていて、それを知らぬ顔でいたのかそこまでは聴かなんだが、何しろそこで産声を挙げられたのが金三郎様じゃ。その後小笠原兵右衛門さんは仔細あって浪人。その伜で届けてある金三郎様も御浪人。大阪表へ出て手習並びに謡曲《うたい》の師匠。その間《うち》に兵右衛門さまは御病死、後は金三郎様が矢張謡曲と手習の師匠、阿母《おふくろ》様の鶴江様が琴曲の師匠。その鶴江様が又御病死の前に、重い枕下《まくらもと》へ金三郎様をお呼び寄せの上、実はこれこれの次第と箪笥《たんす》の抽斗《ひきだし》深く納《しま》ってあった新太郎少将様の御守脇差を取出させて、渡されて、しかし決して名乗り出ては相成ならぬ。君の御迷惑を考えねばならぬと堅く留められていられたのを、旅医者の俊良殿がチョロリと耳に入れて、なんというても御親子《ごしんし》は御親子であるで、御|記念《かたみ》の脇差を証拠に名乗り出《い》で、御当家に御召抱えあるようにと、その御願いの為にお出向きなされたので、猶《なお》まだ動きの取れぬ証拠としては、御墨付同様の書類もあるとやら。素《もと》よりこの儀造り事ならば、御殿様の御心に御覚えのあろう筈がないで、直ぐ様|騙《かた》り者と召捕られて、磔《はりつけ》にもなるは必定。そんな危い瀬を渡る為にわざわざ三人で来られる気遣いはなく、まぎれもない正物《しょうもの》とは、わしにさえ鑑定が出来るのじゃ」
「やれ、嬉しや、福の神じゃ」
 お幸と来ては亭主以上の欲張り女。
「そこで、それ、今の内に、娘のお綾をな」
「合点で御座んす」
 気が早い。欲に掛けては呑込《のみこみ》の好い事|夥《おびただ》しいのであった。
 こうした欲張二人の間に、どうして美しいお綾という娘が出来たろうか。イヤそれは出来る訳がないので、実は宿に泊った西国巡礼夫婦から金に替えて貰ったので、この娘を看板に何か金儲けと考えていたのが、今度初めて役に立った訳。
「したがこの事は、娘の耳にも入れて置いた方が宜しかろう」
「それもそうじゃの」
 この事を母のお幸から、密《そっ》と娘お綾の耳に入れた。そうして。
「お前の出世にもなる事だから、必らず金三郎様の御意に逆らわぬように、何事でも素直にお受けして、好いかえ」
 ところが、このお綾には既に人知れず言交《いいかわ》した人があるのであった。それは朝日川原の夕涼に人出の多い中をお綾はただ一人で、裏口から出て、そぞろ歩きしていた時の事であった。
「やァ評判の半田屋の娘が涼みに出た」
 忽ち人は注目して、自然にお綾を取囲むので、さなきだに備前の夕凪《ゆうなぎ》。その暑苦しさにお綾は恐れをなして、急いで吾家へ逃げ込もうとした。
 するとその頃、網《あみ》ノ浜《はま》から出て来て、市中をさまよい歩く白痴の乞食《こじき》、名代のダラダラ大坊《だいぼう》というのが前に立ちふさがった。
「いひひひひ」
 変な笑いに異状を示しながら、袂《たもと》の中から取出したのは大きな蝦蟇《ひきがえる》。それの片足を攫《つか》んでブラ提《さ》げながら、ブランブランと打振り打振り、果てはお綾の懐中《ふところ》に入れようとするのであった。
「きゃッ」
 お綾は蛇も嫌いであるが、別してこの蝦蟇のイボイボを見ては、気絶するばかりに虫が好かぬのであった。
 お綾が顔色を変えて逃げ出すのを見て、ダラダラ大坊は一層面白がって。
「わしの嫁になりんさい。それがイヤなら蝦蟇のイボイボを嘗《な》めんさい」そう云いながら追掛けた。
 それを横合から出て救ってくれた一人の若侍。これは御側《おそば》小姓を勤める野末源之丞《のずえげんのじょう》というのであった。
 それが縁となって、夜の京橋|上《うえ》に源之丞が謡曲《うたい》の声を合図として、お綾は裏口から河原に忍び出るとまで運んでいた。
 お綾はその野末源之丞の許へ、小笠原金三郎の御落胤云々、と手紙を以て密告に及んだ。栴檀《せんだん》の木稲荷の絵馬売の老婆に託して、源之丞が射場通いの途中、密《そっ》と手渡して貰ったのであった。
「容易ならぬ一大事」
 早速野末源之丞から、新太郎少将の御耳に入れたのは勿論であった。

       四

 一方には旅医者奥野俊良。家老職池田|出羽《でわ》に面会して、内密に落胤の事を談じ、表面は浪人御召抱えの嘆願という手筈を定めていたが、生憎《あいにく》その池田出羽が、天城屋敷《あまぎやしき》に潮湯治《しおとうじ》の為出向いているので、今日か翌日《あす》かと日和を見ていた。
 こちらには小笠原金三郎。京大阪にも珍らしい美人お綾が、昼間は殆《ほとん》ど付切りで、なにかと心づけてくれるので大喜び。
 ではあるが、ここは一番大事なところだと考えた。公然新太郎少将と父子の名乗りは出来ぬかも知れぬが、内密の了解は得て、いずれは池田家へ召抱えられて、分家格で何千石かを頂き、機《おり》を見ては又何万石かを貰える様になるのは、分り切っているのであるから、その前に宿屋の娘と馴れ親んでいたなど、少しでも不行跡を認められては工合が悪い。ここが我慢の仕所だと、そういう常識も出る事は出た。
 けれどもまたその後から、しかし、お綾は無類の美人だ。あれと一夜語り明かして見たい。そうした若い者の情に燃えて、抑えかねてもいるのであった。
 この道は又別なものという証拠は、現に聖賢の道に深入りして四角張ってのみいられる池田新太郎少将に見られるのだ。その裏面において、侍女《こしもと》を懐妊させたという秘事さえあるのだもの。ましてや我等凡夫に於てをやなんど、そんな勝手な考えが忽ち持上って、矢張お綾が給仕に来ると、どうも冗談口を利かずには済まされぬのであった。
 秋には近いがまだ却々《なかなか》に暑かった。奥二階で駒越左内奥野俊良の二人と、朝日川の鮎《あゆ》を肴《さかな》に散々酒を過した金三郎。独り離れの隠居所にと戻った。蚊いぶしの煙が早や衰えていた。
 ここへ母親お幸に突きやられて、娘のお綾が蚊帳を吊りに来た。
「おう、お綾。蚊帳を今から吊られては暑苦しゅうてどうもならぬ。まァまァそれよりも話して行ったが好い。今宵は又しても風が少しも無い。眠うなるまではここにいて、相手してくれやらぬか」
「はい」
 逃げ出そうとすれば庭木戸の傍に母親が隠れて頑張っている筈。それを突破して逃げる程のそれだけの勇気も出せぬので、お綾は縁側に手を支《つ》いたまま、モジモジして控えるのであった。
「まァ、何をその様に遠慮しているのじゃ。拙者は近く御当家に御召抱えと相成る身。さすれば早速又家内を迎えねば相成らぬで、それには誰彼と云おうより、お前に来て貰いたい真実の心」
「あれ、勿体ない。宿屋風情の娘が、御身分の御方様に……」
「いやいや、それは仮親を立てる法もある。まァその様な事を申さずと、嫁入り支度に就て、もっとも打解けて語り合おうではないか。さァ、さァ近く……はて、恐しい蚊の群じゃ」
 立って金三郎は撫川団扇《なつかわうちわ》バタバタと遣い散らし、軒の燈籠《とうろう》の火を先ず消した。次いで座敷の行燈《あんどん》の火も消した。庭の石燈籠の火のみが微かにこちらを照らすのであった。
「御免なされませ」
「はて、まだ好いではないか。もう少し話相手していてほしい」
 折も折とて京橋の東袂《ひがしたもと》近き所にて、屋島の謡曲《うたい》の声。それぞ源之丞のおとずれとお綾の心はそちらにも取られた。
 母親のお幸は、灯火の消えたので、安心して、店の方へ引下った。
 この時、忽ち隠居所の中で。
「あれ――」という悲鳴。それはお綾の口からであった。
 続いて金三郎の甲走った声で。
「曲漢《くせもの》ッ」と呼《よば》わった。
「御免下さりませ。つい暗いので部屋を取違えて」と聴き馴《な》れぬ女の声が、室の一隅で起った時に、悲鳴に驚いて店の方からお幸が手燭を点けて急いで来た。
 その光で見ると、白麻の衣《きぬ》に黒絽《くろろ》の腰法衣《こしごろも》。年の頃四十一二の比丘尼《びくに》一人。肉ゆたかに艶々《つやつや》しい顔の色。それが眼の光を険《けわ》しくしているのであった。
「おう、お前様は晩方お泊りの尼さんでは御座んせぬか。あなたのお部屋は表二階。それがいかに暗闇《くらやみ》とは云いながら、間違えるのに事を欠いて、離れ座敷のここへは?」とお幸は不審を打たずにはいられなかった。
「いや、庭内に稲荷の御祠《みほこら》があると女中殿から聴いて、ちょっとお参りの為に」
 尼さんでも稲荷信心。これは為《せ》ぬ事とも云われぬので、お幸はそれもそうかと思わぬでもなかったが、しかし、又何となく合点の行かぬ節ありと見ぬでもなかった。
 第一その金三郎の顔色が一通りではないのであった。まるで死人のそれの如く真蒼《まっさお》に変じているのからして、何か事情のあるらしく考えられた。
 尼は初めて気が着いたらしく。
「これはこれは。どなた様かと存じましたら、あなたは小笠原金三郎様では御座りませぬか。変った土地でお目に掛りまする」
「おう、智栄尼《ちえいに》で御座ったか」
「不思議な御対面で御座りまするな」
「左、左様で御座る」
 これは様子が変だと思ったから、お幸はお綾を促がして、ここを引下った。そうして植籠《うえこみ》の蔭で蚊に螫《さ》されるのを忍びながら、立聴きするを怠らなかった。
 この間《ま》にお綾は裏口から河原へ出た。そこには野末源之丞が待兼ねていた。

       五

 誰も他にいなくなった離れ座敷では、忽ち形勢が一変した。金三郎の胸倉を取って智栄尼は小突き始めた。
 金三郎は両手を合せて拝み拝み。
「まァ密《ひそ》かに。荒立ては万事が破滅、密かに……頼む……これ、後生じゃ、頼む」
「いや頼まれぬ。破滅しても構わぬ。いや、破滅の方が却って拙尼《せつに》には幸いじゃ。この悪性男。拙尼が虎の子の様にしている貯えの金三百両引出して、これが支度金で出世が出来ると備前の太守の御落胤を売物にして、三人での旅立。それは確かな証拠もある事ゆえに、それに相違はなかろうけれど、出世したところでこの家の娘を嫁に引取る料簡《りょうけん》では、拙尼の方が丸潰れじゃ。御取立に預った上は、必らず後から呼び迎えるという、あれ程堅く約束をして置きながら、浮気するとは何事ぞい。こうした事もあろうかと、拙尼も天王寺《てんのうじ》の庵室にジッとしてはいられず、後から尾《つ》けて来て見れば、推諒《すいりょう》通りこの始末じゃ。もう三百両の金無駄にされても好い
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