今度の巡検使は、厳しいか、緩やかなのか、領内の者が脈を引いて見るのは、最初の宿の三島という事に代々極っているのだが、純之進の態度が若きに似ず意外に厳格なので、これは一筋縄では行かぬと覚ったらしかった。
 明くる日は駕《かご》かきの人足まで皆村方から出て来て、その外お供が非常に多かった。三島|明神《みょうじん》の一の鳥居前から、右に入って、市ヶ谷《いちがや》、中原《なかはら》、中島《なかしま》、大場《だいば》と過ぎ、平井《ひらい》の里で昼食《ちゅうじき》。それから二里の峠を越して、丹那の窪地に入った時には、お供が又殖えていた。役人はこわい者、機嫌を取っておかぬと後の祟《たた》りが恐ろしいという、そうしたその時代の百姓心理を、ゆくりなく初日から示したのであった。
 丹那という土地は四方を高い山々で取囲まれていて、窪地の中央《まんなか》に水田があって、その周囲に農家がチラホラとあるに過ぎなかった。
 けれどもここの旧家|山田《やまだ》氏というのは、堂々たる邸宅を構え、白壁の長屋門、黒塗りの土蔵、遠くから望むと、さながら城廓《じょうかく》の如くに見えるのであった。
 ここにも村々から大勢出迎えていた。山田家の歓迎も一通りでなく、主人は紋服|袴穿《はかまば》きで大玄関に出迎え、直ちに書院に案内して、先ず三宝に熨斗《のし》を載せて出して、着到を祝し、それから庄屋格だけを次の間に並列さして、改めてお目通りという様な形式に囚《とら》われた挨拶《あいさつ》の後、膳部なども山中とは思われぬ珍味ぞろい。この家ではどうしても杯を手に持たせずには置かなかった。
「さぞ道中御つかれの事と存じまするで、今宵はどうかお早くお寝みを願いまする」
 主人の挨拶を幸いに純之進は漸《ようや》く奥まりたる一間に入るを得、ただ一人打くつろぐ事が出来た。

       二

 これで漸く楽になったと、純之進絹布の夜具の中に入ろうとすると、何者やらソロソロと襖《ふすま》を開いて入来《いりきた》った。見ると地方には稀《まれ》な美しい娘であった。
 これが恐ろしく小笠原流《おがさわらりゅう》で――それで何をするのかと思うと、枕頭《まくらもと》に蒔絵《まきえ》の煙草盆《たばこぼん》を置きに来たに過ぎなかった。
 純之進は無言《だま》ったまま、娘に構わずに寝て終《しま》った。娘はまめまめしく布団の裾《すそ》を叩《たた
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