した。
「――いくら?…………」
「……………………………」
「――僕は、あらゆるものをあなたのために失くしてもいいんです。」
 しかし、彼女は青磁のリノリウムに花の浮いた波浪をつくると、突然、佗《さび》しさを堪えた悲しみの堰《せき》がこわれるのだ。
 その、彼女の涙の洪水に、僕の不徳が押し流されてしまうのだった。
 僕は黙って立上ると、鍵穴を埋めた冷やかなものに触れた。妙に官能的な音がした。
「――………お帰えんなさい。」と、甘美な気分のなかで僕が云った。
「――……ええ。」啜《すすり》泣くのをやめると、栗鼠の毛皮の外套をつけた女は、コンパクトで化粧をなおしてから、
「――あたし神戸だわ、でも明夜の十時五十五分の列車で妾《わたし》帰ります。」
「――さようなら。」
「――……さようなら。」

     ★

 とつぜん、受話器を外した電話を衝撃する音が、僕と魑魅子のこころをときめかした。
 一瞬間、儚《はかな》かった恋愛の泡が消えて、エモーションの波のなかに僕は、繊細な事件のために魑魅子にあたえた心理的な新らしい恋愛の鋳型《いがた》を見るのであった。



底本:「吉行エイスケ作品集」文園社
   1997(平成9)年7月10日初版発行
底本の親本:「吉行エイスケ作品集 ※[#ローマ数字2、1−13−22] 飛行機から墜ちるまで」冬樹社
※底本には「吉行エイスケの作品はすべて旧字旧仮名で発表されているが、新字新仮名に改めて刻んだ。このさい次の語句を、平仮名表記に改め、難読文字にルビを付した。『し乍ら→しながら』『亦→また』『尚→なお』『儘→まま』『…の様→…のよう』『…する側→…するかたわら』『流石→さすが』。また×印等は当時の検閲、あるいは著者自身による伏字である。」との注記がある。
入力:田辺浩昭
校正:地田尚
2001年2月19日公開
2009年3月12日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
前へ 終わり
全4ページ中4ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
吉行 エイスケ の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング