皮膚をのぞかせて鏡のように磨かれた石造の建物に吸いこまれた。
天満天神に朝|詣《まい》りした五花街の女たちが、ふたたび睡《ねむ》るころ、北浜|界隈《かいわい》は車だまりから人力車が一掃されて、取引市場をとりまいた各商店では、踊子がつけた腰の鈴のように電話が絶えまなく鳴り渡った。
私がホテルの寝床からそのまま父の輸出綿花事務所へやってくると、夜の疲労をぬりかくした、濃化粧したタイピストが電話機の電鍵《でんけん》を敲《たた》くように、昨夜の記憶を白紙にうずめていた。
昨今の上海《シャンハイ》投機の気まぐれで、銀塊《ぎんかい》相場を有史以来の崩壊に導いた、その余波のためにこの輸出綿花事務所は不況のどん底にいた。何故、この女タイピストの指の悪戯《いたずら》をよささないわけに行かなくなったかと云うに、銀塊急落の最も大きい原因は、印度《インド》でおこなわれた幣制の改革と、支那商人の思惑のとばっちりからであった。
反|蒋介石《しょうかいせき》派の激化と、東支鉄にからんだ露支《ロシ》間の葛藤、南京政府の幣制の改革にたいする商人の思惑は、対支商談におけるワシントン政府の経済政策が、帝国主義戦争の一つの徴《しるし》として、ワシントン当局者のからくりによって時局が平穏のうちに解決されると、南京政府は中央銀行を設け、上海造幣|厰《しょう》を開いた。めずらしく支那内地に戦争がなかったので銀需要の思惑は、これらの悪材料のために前後不覚となり惨落となった。
北浜界隈も、支那財界の大混乱のために、対支商談は不況のどん底に陥ってしまった。
私はビルデングの窓のカーテンをひらいた。向いのN万ビルのマネキン事務所には、アメリカン・スタイルの女たちが地面にカードをひろげたように、緋の絨氈《じゅうたん》の上でお化粧を始めていた。
私は仕事机に坐ると朝刊をひらいた。すると、そこには附近に商店を持った大相場師のSが、いよいよ起訴されたこと、またしても近頃流行する、都会女の自殺が写真入で報道されていた。金融界の乾《いぬい》の手輩としてN・R漁業権を背景として、政党と政党の対立に山師の貫祿を見せた彼も、内閣が更迭《こうてつ》すると疑獄事件のうずのなかに、不治の病を発してしまった。
内閣が変って、金解禁とともに現金通貨に需要が減退して、金融市場は、遊資のために市場金利においてコール貸日歩の急落、国債、市債の抬頭《たいとう》等の変化を見せたが、国内における購買力の減少は、街から街に黄濁の切断面をつくった。
この界隈の連合委員会の事業振興の決議案にもかかわらず、閑散とした取引市場をとりまいて、日一日と失業者と、彼らの飢えが生産余剰と反比例して街の広場に堆積《たいせき》して行った。
女タイピストが薔薇の花のついたガーターを、私の眼前で、わざと見えるような位置に脚をくんで、五色のおらんだ煙草をくわえた真紅な唇をゆがめると、細い橋を、熟練した工兵のように室内に吐き出した。
この社長室に父が出現するにはまだ一時間の猶予があったので、韻律を踏むように、私は彼女に近づくと、
「――君は不景気に処する道を知っていますか? それとも、君は他の女と異った意見をもっていますか。」
「――商業地の真ん中で、水入らずにそんな謎のような話をするものじゃありませんわ。あなたのような方は、この銀安を遁《のが》さず上海《シャンハイ》にでも行って金貨のありがたさを味わってくるんだわ。今朝の新聞では日本向カワセ相場は九六|両《テール》四分の三、千の寝床を得るのはお安いとこが経済ってものだわ。」
摩天楼《まてんろう》の鏡の面からつやぶきんをとるために、私は、藍色のカーテンで市街に向ってひらいた窓を閉ざすと、
「――それよりか、君のコオセット・ボタンがいくつあるか計算さしてもらいたいもんだね。」
「――あなたは図《ず》う/\しいのね。」
コミックの女のように肩をゆすって彼女は立ち上ると、部屋の把手《ハンドル》をあらあらしく廻した。
「――少し待ってくれ。スカートの短い女のまえで自殺する男にたいするご意見は?」
陽気に、口笛を吹いて女タイピストが踵《きびす》をかえした。
「――妾だったら、自殺するかわりに結婚するわよ。」
「――政府じゃないが緊縮してまでもか。」
「――あら、快楽のためにはフォードだってかまわない、山間を疾駆《しっく》するじゃありませんか。」
5
ところが、
午後になると――資産家。重役。月給取。靴磨き。タイピスト。薄給の教員。それ等の人間が急行列車桜、高速力巡航船、ホテル、トーキー常設館、オフィス、レストラン、冬期競馬場、少女歌劇場、それらの場所にいたあらゆる階級人が、驚愕《きょうがく》するような事件が勃起《ぼっき》した。
それはアメリカ資本主義に崩壊の徴《しるし》があらわれたことであった。何もののために――プロレタリアの巨弾によってであろうか? ところが、アメリカにおけるプロレタリア自身、パニックの最中において米国産業組織の同伴者であった。すると、犯人の武装を解除して見よう。
犯人は英国の大銀行団と、その背後のフイナンシャーであった。
後日になって、倫敦《ロンドン》のサンデー・ビクトリアル紙は左の如く当日の模様について述べた。
(ウォール街は、過去において吸いあげポンプと化していた。世界の資本を呑みこみ、その跡に到るところ空洞を生ぜしめた。倫敦市場のみでもその地理書をひもとくまでもなく、一日数万の米国株式の売買があった。巴里《パリー》、伯林《ベルリン》、ブラッセル、アムステルダム、何《いず》れも電信の速力は一杯にウォール街に資金を流入した。大西洋北岸の富の余剰《よじょう》はいまや米国株式に変形したと歎《たん》じさせた。このウォール街にも遂《つい》に破局があった。財界|平衡則《へいこうそく》に反した信用のインフレーションは英蘭《イングランド》銀行の利下げとともにその崩落の道をたどった。云々。)
英国金融資本が、米国産業資本に強靭《きょうじん》な波瀾《はらん》をまきおこしたために、米国資本を背景とした商工都市大阪は、ウォール街を恐怖がおそうと同時に、赤鼻女の野暮なアメリカの衣裳をつけて財界の迷路に立った。
また、銀塊《ぎんかい》相場を暴落させた、ワシントンの要路の背景にあったものは、誰か。
一九二六年、恐慌状態にあった銀塊市場にたいして、英領|印度《インド》において組織された印度貨幣金融委員会が、一九二七年三月二十七日、三億五千万オンスの銀持高をもって、ルーピーの新貨幣制を決定した。その背後にあって英国当局者は銀売、金買いの機微な策略によって今日を期していた。
資本主義戦争の尖端《せんたん》を行くもの、これも、犯人は英国であった。
突然、電鈴が私の耳に亀甲町にある、綿花綿布倉庫会社の事業停止による賃金不払のため、従業員のストライキを報《し》らせた。
だが、諸君。
これは何んのためのストライキだ。
6
夜になって襲来した暴風雨が、街から灯火を奪った。
午後と、午前の境界にもかかわらず、ラジオが、倫敦から放送される歌謡を伝播《でんぱ》していたのを疾風のなかで私は嚥《の》み下した。ココア色の女の皮膚に雷紋の入墨をしたような夜更けであった。
皺《しわ》だらけの私の寝室をノックする音がして、暗闇から出た女の手が、楕円形の天井をみつめていた私の目前で葡萄蔓《ぶどうづる》のようにからんで、青いリノリウムのうえにMELINSの扱帯《しごき》が夜光虫のように円をつくると、私は断截された濡れた頭髪を腕の中に感じて、いつのまにか恋愛のマッフのなかに、ひとときの安息を求めた。
「――妾、あなたくらい好きな人ないわ。」
と、チタ子が言った。
底本:「吉行エイスケ作品集」文園社
1997(平成9)年7月10日初版発行
1997(平成9)年7月18日第2刷発行
底本の親本:「吉行エイスケ作品集 ※[#ローマ数字2、1−13−22] 飛行機から墜ちるまで」冬樹社
1977(昭和52)年11月30日第1刷発行
※底本には「吉行エイスケの作品はすべて旧字旧仮名で発表されているが、新字新仮名に改めて刻んだ。このさい次の語句を、平仮名表記に改め、難読文字にルビを付した。『し乍ら→しながら』『亦→また』『尚→なお』『儘→まま』『…の様→…のよう』『…する側→…するかたわら』『流石→さすが』。また×印等は当時の検閲、あるいは著者自身による伏字である。」との注記がある。
入力:霊鷲類子、宮脇叔恵
校正:大野晋
2000年6月13日公開
2009年3月21日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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